トップページ>>「元気な日本人女性ヴァイオリニスト」に思う

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イントロダクション



ここ数年を振り返ってみると、日本人の女性ヴァイオリニストの活躍が目を引く。
 五嶋みどりは、例のカーネギーホール衝撃的デビュー以来、聴衆の期待にそむくことなく、常に安定した演奏を提供し、チャイコフスキー・コンクールに優勝した諏訪内晶子とともに世界のメージャー・オーケストラのソリストに招かれている。前橋汀子のパッショネイトな表現は、相変わらず有無を言わさぬ説得力があり、竹澤恭子も、広いレパートリーをそつなくこなしている。最近の堀米ゆず子には風格さえ見られるし、加藤知子渡辺玲子漆原啓子朝子姉妹などと、挙げていけばキリがないくらいだ。

それと同時に、プログラミングも非常に多彩になってきて、ひところのドイツもの一辺倒から抜け出し、一晩のコンサートで世界各国の音楽、そして古典派から現代音楽にいたる幅広いレパートリーが聞けるようになったのは聴衆にとってもありがたいことだろう。ペルト《フラトレス》に始まり、モーツァルトのK304でリラックスした後、プロコフィエフのソナタ第一番で二十世紀前半の音楽、そしてトュールの《コンヴェルサシオ》で現代音楽の緊張感を味わい、ふたたびモーツァルトのK378でその緊張を解きほぐし、最後にピアソラ作品で、ノスタルジー、ラテン的情緒に浸って、家路につく。夢ではない。久保田巧が行った実際のコンサートである。

 一例を挙げてみたが、それぞれが趣向を凝らしたプログラミングのコンサートを企画しており、「一晩、コンサートを楽しめればよい」という観点から見れば、全員、合格だ。いや、それでは言い足りない。なまじっかな外国人アーティストの『お決まりの』コンサートに比べれば、はるかに変化に富んでいるし、テクニックと言う点でも申し分ない。

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1.〈芸術家〉と〈ヴィルトゥオーソ〉



 しかし、私の問題意識は、一過性のコンサートをそつなくこなせるヴァイオリニストではなく、音楽そのものに斬新な解釈を与える〈芸術家〉が、はたしてこの中から生まれてくるのだろうか、という点にある。

好例がイツァーク・パールマン。彼の若き日の比類ないテクニックと甘い音色にかなうものはいなかった。プライヴェイト・テープに、七十年代にショルティ/シカゴ響をバックに演奏したチャイコフスキーの協奏曲、ローレンス・フォスター/ベルリン・フィルとのシベリウスの協奏曲があるが、一言で言えば、そのヴァイオリンの節回しはあたかも作曲者が乗り移ったかのようで、知情意ともにもっとも充実していたときのパールマンの演奏は、壮絶としか呼びようがない。これらの曲はスタジオ録音されたCDで聞くことができるが、絶世時に録音されたものはすべて名盤と言ってよい。アシュケナージと組んだベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集、バレンボイムと組んだモーツァルトのソナタ集、そして数々の協奏曲も皆最高の水準を保っているが、そのなかでもパガニーニ作品は誰の追従も許さない。彼の《二十四のカプリース》を上回るものはここ当分現れることはないだろう。現代のヴィルトゥオーソの一人といって間違いない。

次にキョンファ・チョン。彼女のパッションは、聞き手を否応なしに音楽の中に引きずり込んでしまうほど強烈だ。チョンの弾いたシベリウス、プロコフィエフ、バルトーク、チャイコフスキー、ブルッフなどの協奏曲を冷静に聞くことができるだろうか。私などは聞いた直後は、まるで金縛りにあったように動けなくなってしまう。フランクのヴァイオリン・ソナタなどは、両者ともに好サポートを得て(パールマンにはアシュケナージ、チョンにはルプー)、持てるものすべてを出し切っている。

 しかし、あえて問う。このヴィルトゥオーソたちは何か新規な音楽解釈を提起しただろうか。音楽演奏の流れに何か貢献をしただろうか。私は、コンサートという、E.W.サイードの言葉を借りれば『非日常的なパフォーマンス』を否定しはしない。そして、音楽という純粋時間に属する真の芸術形態のなかで感動を与えてくれるヴィルトゥオーソも否定してはいない。ただ、演奏行為は再現芸術であるから、単に因襲的な解釈にとどまらずに、真に芸術家と呼べる創造的な演奏家、未来を志向した新規な解釈を試みる演奏家をも期待しているのである。そうした観点から見ると、これらのヴィルトゥオーソたちには不満が残る。が、彼らは彼らで同時代の聴衆に感動を与える、という重要な役割を果たしているのだから、それはそれでよく、決して彼らを批判しているわけではないので誤解のないように。


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2. 先鋭的な現代の演奏家たち



人の耳は頑固であり、伝統から抜け出そうとする楽曲解釈、そして、いわゆる現代音楽語法を容易に受けつけようとはしない。それでも、真の天才はそうした因襲的な障害を必ずはねのけて頭角を現してくる。ギドン・クレーメルがその筆頭格だ。クレーメルがバッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》をリリースしたとき(八十年)、その演奏を評価するものは少なかった。おそらくこの演奏が将来のヴァイオリン演奏の基盤となっていくとは、多くの批評家さえ見抜けなかったのだから無理もない。ペルトの《フラトレス》を始めて録音したのも、ピアソラ作品をクラシック界に紹介し、定着させたのもクレーメルではなかったか。八十年代、クレーメルは来日するたびといってよいほど、アンコールにピアソラを演奏したのを記憶している方も少なくないだろう。

 ここで、二人の先鋭的なヴァイオリニストを考えてみる。 まず、クリスチャン・テツラフ。すでにバルトークや現代作品で名を馳せていたこのヴァイオリニストは、来日コンサートで、得意とするルトスワフスキシマノフスキを弾くと同時に、モーツァルト、ブラームスにも「まだ、こうした古典的な作品にも新しい解釈を与える余地がある」ことを示した。それだけではない。九十八年に全曲録音したバッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》では、モダン・ヴァイオリンの限界とも言える演奏困難な重音奏法を克服するだけでなく、なめらかなノン・レガート奏法により「バッハの無伴奏作品はギクシャクしたもの」という固定観念をくつがえした。彼のバッハは、ただ音楽的にすぐれているだけでなく、美しい。この『美しい』という形容詞は、これまで、バッハの無伴奏作品に触れるときにはおよそ不適当な言葉だった。

 次に、トマス・ツェートマイヤー。彼のバッハ解釈も独特であり、やはりノン・レガート奏法に非常な苦心の後がうかがえる。ツェートマイヤーの場合は、恐ろしいほど緻密な表情をつけることにより、モダン・ヴァイオリンのノン・レガート奏法に美的感覚を与えるのだ。すでに八十年にディスクはリリースされてはいるが、新録音も時間の問題だろう。放送録音で聞いたパルティータ第二番のシャコンヌは、テツラフほど徹底してはいないが、やはり、形式をきちんと保った上で、モダン・ヴァイオリンの美しさを前面に押し出したものだった。彼は、印象主義的音楽として名高いシマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲》を録音しているが、サポートするサイモン・ラトルがこの作品を正当に解釈していないにもかかわらず、独特のヴァイオリン奏法による色彩感を見事に表出しているのはさすがだ。

 それにしても、この先鋭的ヴァイオリニストが二人とも、非装飾性の代表であるバッハと装飾性の代表であるシマノフスキを得意のレパートリーとしているのは興味深い。シマノフスキ論については稿を改めるが、この作曲家はその音楽性の高さに反比例して、あまりにも無視されすぎている。が、その音楽性の高さを鋭く見抜くテツラフとツェートマイヤーは、それだけでもただ者ではない。考えてみれば、ペンデレツキルトスワフスキも、ポーランドを同郷とするシマノフスキを足場にして自己の音楽語法を獲得してきたのではないのか。おそらく、今後、シマノフスキは再評価の対象になるだろう。
 いずれにせよ、この二人は二十一世紀を先取りしている感がある。


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3. 二十世紀ヴァイオリンの牽引者



 音楽演奏にも厳然とした時流があり、どの演奏形態、楽器を取ってみても、ただ同時代人だけに受けたものは淘汰されていく。ここでは、元気な日本人女性演奏家を引き合いに出してヴァイオリニストについて論じてきたのだが、では二十世紀現在のヴァイオリン演奏スタイルの牽引役を果たしてきたのは誰なのか、今世紀も後わずかを残すまでに押し迫ってきて、少しずつその牽引役が明らかになってきたようだ。

 何にでも先駆者がいるもので、二十世紀ヴァイオリン演奏の先駆者として、私はフリッツ・クライスラーを挙げたい。二つの世界大戦間という混沌とした社会状況にありながら後世に遺したベートーヴェン、ブラームスの協奏曲録音を外すわけにはいかない。ウィーン情緒をもとに作曲した数々の小曲のほうがはるかに有名なクライスラーだが、自身の演奏は巷間に流れているようなただロマンティック一辺倒ではなく、堅固な形式感覚がもたらす『高貴さ』と言うべきものが漂っている。そうした構成感が、この二つの協奏曲に結晶したのはいいが、おそらく同時代人には異質なものと映ったことだろう。

 そうした後に真打ちが登場する。現代ヴァイオリン演奏の原型を形作った第一人者は、やはり、ヤッシャ・ハイフェッツだろう。十九世紀的ロマンティシズムから誰もが抜け出せなかったとき、たとえば、アドルフ・ブッシュ、ミッシャ・エルマン、ヨーゼフ・シゲティら、もちろんこうしたヴィルトゥオーソたちを評価することに異論はないが、ハイフェッツ一人がよけいな思い入れを廃した、即物的とも批判される演奏をあえて貫き通し、その後のヴァイオリン演奏のスタイルの規範となっていったのだ。彼の運指から繰り出される正確無比な音と、どれほど速いテンポでも乱れないアーティキュレーションは、現代のヴァイオリニストでさえ舌を巻くことは言うまでもない。

 今一人は、ダヴィッド・オイストラフである。ハイフェッツの天才は常人の及ばないところがあるが、オイストラフは模範たりうる。特に、ドイツ古典派を中心とする伝統的な音楽では、整然とした形式をきちんと踏まえた上で、モダン・ヴァイオリンの持つロマンティシズムを、恣意的にではなく、ごく自然に表現する。ハイフェッツの天衣無縫な音楽に対して、オイストラフの音楽は実にリーズナブルなのである。特に、オイストラフのベートーヴェン、ブラームスは、これからも模範的演奏として尊敬され続けるだろう。



♭フランコ・ベルギー派



しかし、ヴァイオリン音楽の系譜には、ドイツ主流派に対して、フランコ・ベルギー派というものが厳然として存在し、その表現は、主題と展開を基盤とするドイツ主流派とまったく異なり、全身的な感情移入を要求する。こうした音楽に関しては、模範、規範といったものが存在せず、まず情緒が先行する。それで、いまだにジネット・ヌヴージャック・ティボー、ジノ・フランチェスカッティといった、いわゆるお国ものの、ロマン的な演奏が珍重されているのである。人間感情に基準がないのと同じことであり、これらの天才の残した演奏はおそらく永久に聞き継がれていくに相違あるまい。

 それでも、異なる観点からのアプローチが、こうした作品にも新風を吹きこんでいく。ショーソンの《詩曲》といえば、ヌヴーの演奏が一頭抜きん出ているが、クレーメルはここでも、一見クールでありながら、ネオ・ロマンティシズムとも呼ぶべきアプローチで、この作品の持つ鬱屈した感情の表出に成功している。ドビュッシーやラヴェルのソナタに関しても、若いヴァイオリニストたちが次々と新鮮な解釈を試みているのは、はたで聞いていてもすがすがしい。その中から決定的な名演が必ずや生まれてくると信じている。



♭時代楽器演奏



さて、二十世紀の音楽に言及するときには、時代楽器による演奏を無視することができない。ドイツでは、すでに六十年代以前から、ニコラウス・アルノンクールが〈ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス〉を結成して、主にバッハ作品を作曲者存命時の楽器、もしくはそのコピーを用いて演奏し始め、イギリスではサーストン・ダート教授のもとに、デイヴィッド・マンロウがバロック音楽を演奏したのを受け継いで、七十三年にクリストファー・ホグウッドが〈エンシェント室内管弦楽団〉を設立し、時代楽器演奏によるモーツァルト交響曲全集をリリースして、楽壇に新風を吹きこんだ。この潮流は、オランダにも生まれ、シギスヴァルトを中心としたクイケン兄弟が中心となって七十三年には〈ラ・プティット・バンド〉を結成している。ここでは、アネル・ビルスマの存在も忘れてはならない。

 ヴァイオリン音楽としては、シギスヴァルド・クイケンが八十一年にバッハの無伴奏作品集、ソナタ全曲を時代楽器で演奏しているが、このLPがリリースされた当時は一顧だにされなかったというのに、現時点の九十八年ではクレーメルの同作品の次に評価されている。その後、ヤープ・シュレーダーがモーツァルトのソナタを弾いているが、やはり、楽器の扱いが難しいのだろう、オーケストラで演奏するものは多いが、ソナタを演奏するものは少ない。ここに時代楽器演奏の限界があるように思えるが、そのノン・レガート演奏が、モダン楽器に影響を及ぼしたことは認めざるを得ない。

 しかし、理念からすでに時代に逆行している、貧しい音量、音響の時代楽器が、今後のヴァイオリン界を牽引していくとは、とても思えないので、その影響について考慮することだけで、時代楽器に関する考察は終えてもよいだろう。

 ヴィルトゥオーソとして、アイザック・スターンナタン・ミルシテインヘンリク・シェリングアルテュール・グリュミオーなどをお忘れか、と反論されそうだが、私の意図はヴァイオリニストの系譜をたどることではなく、演奏スタイルを牽引して次世代のトレンドを築いていくような、常に先鋭的なヴァイオリニストを引き出すことにあることを忘れないで欲しい。そのために、批判を承知の上で、チョンやパールマンをさえ斬ったのであり、クレーメルを現代の先鋭的なヴァイオリニストの先駆者として挙げたのである。


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4.さらにクレーメル……そしてフィナーレ



 そのクレーメルの先鋭さの証拠がまた出てきた。八十二年八月十三日、ザルツブルグでのリサイタルのエア・チェック・テープで、ここでは、R・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタが取り挙げられている。R・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタといっても今では誰も驚かないが、それはここ十年ほどの現象であり、このリサイタルが行われた時点では、おそらく、この佳曲の存在を知っていたものはごく少数に限られたに相違ない。今、また聞き直してみて、その解釈の斬新さに驚いてしまう。その後、チョンがCD録音して以来、急速にこの曲に対する人気が高まった。演奏家もレパートリーの拡大に悩んでいたのだろう。その突破口を開いて行くのは、やはり、一部の先鋭的な演奏家なのである。

 クレーメルが力を入れているドイツ・ロマン派の曲に、シューマンのヴァイオリン協奏曲がある。やはり、この曲を最初にレコーディングしたのはクレーメルだろう。一回目は、ムーティとで、二回目はアーノンクールとだ。このヴァイオリン協奏曲ほど演奏効果の出ない曲はない。フィナーレとくれば、アレグロが常識であり、カデンツァで名人芸を披露し、コーダで盛り上がりを作って終わる。そうすれば拍手喝采疑いなしだからだ。ところが、シューマンの場合、第一楽章とフィナーレのテンポはnicht schnell、〈速すぎずに〉なのである。カデンツァもない。しかし、クレーメルは再録音でフィナーレのテンポを落とせるだけ落とし、シューマンの意図をえぐり出そうとする。ライヴ録音とはいえ、よほどの自信がなければここまで出来はしまい。はたしてこれが成功したのかどうかは、聞く人の判断に任せるしかないが、私自身はクレーメルの英断により、シューマンという一筋縄ではいかない作曲家の一面が垣間見れた、と思っている。

 ツェートマイヤーにもディスクがあるが、まだまだ踏み込みが浅く、フィナーレが料理できていない。ましてや、ジャン・ジャック・カントロフやその他のヴァイオリニストたちの演奏が、クレーメルの域に達していないのは言うまでもない。



 さて、この小論もフィナーレを迎えた。演奏家は、皆、ある水準まで成長していくが、あるとき、その成長は止まってしまう。こうした現象は日本人演奏家に特に多く見られ、若き頃、天才少女と一時は騒がれても、その音楽性はいくらキャリアを積んでも広くならない、といった例は、もう、うんざりするほど見てきた。私は、そうした点を憂えているのであり、だからこそ、クレーメルやテツラフ、ツェートマイヤーのような時代を牽引する、真に創造的な芸術家が育って欲しいと願うのである。
 ヴァイオリニストにかこつけたが、このことはすべての演奏家に当てはまるし、また、音楽界全体の孕む問題点でもある。さらに広げて考えれば、世界的レヴェルの問題でもあることはもちろんのこと、人間文化の向上につながることも忘れないで欲しい。


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追記



 資料としてプライヴェイト・テープに言及した部分があるが、それがなくても、一般に入手できるCDだけで本論の主旨は理解していただけると思うので、単なる参考として受け取っていただきたい。この小文は、厳密な考証による論考ではなく、あくまでもエッセイとして書き流したものであることは、「…に思う」という表題で示したつもりである。

(了)

川鍋 博

『音楽の世界』1999年7月号掲載/CiNii_40000344008



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参考


1986年14歳のとき、タングルウッド音楽祭でバーンスタイン作曲・指揮によりバイ-オリン協奏曲セレナーデを 演奏中に、E弦が2回切れたにも関わらず楽団員と楽器を交換して演奏を続けた。この時-の様子は、「タングルウッドの奇跡」として、アメリカの小学校の教科書にも掲載された-。

Itzhak Perlman - 24Caprices by
Nicolo Paganini

Kyung-Wha Chung plays Violin Concertos by L.V.Beethoven and Max Bruch

Gidon Kremer - Tracing Astor-Hommage a Astor Piazzolla

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"Kreutzer" Sonata no. 9 in A major, Andante con variazioni played by Thomas Zehetmair, Violin and Valerij Afanassiev, Piano.


Kreisler plays Kreisler-Liebesleid

Jascha Heifetz plays Violin Concero No.1 and Scottish Fantasy

Oistrakh plays Beethoven Violin Concerto.....

Ginette Neveu plays Violn Concertos by L.V.Beethoven,J.Brahms.....
Poeme by Ernest Chausson.

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Sigisvald Kuiken plays 3Sonatas and 3Partitas for Violin Solo by J.S.Bach

Isaac Stern plays Fritz Kreisler

Gidon Kremer live with Martha Argerich
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Gidon Kremer -- 3Sonatas and 3Partitas for Violin Solo by J.S.Bach