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古楽器演奏、過去、現在、未来

  

    ラルキブデッリ&SCP以後⇒”水戸デラルコ”

    追補; ブルックナー交響曲


ラルキブデッリという風変わりな名前の古楽グループの演奏について書いてから、もう、何年も経つ。偶然耳にしたメンデルスゾーンの弦楽八重奏曲の躍動感、爽快感はこの曲の本質を突いたもので、従来の演奏すべてを凌駕した音楽性を備えていたことに、驚くとともに、感心したものだった。

 そして、最近、”水戸デラルコ”という、日本人演奏家が主軸となった古楽器グループ、正確には、ヴァイオリンの寺神戸亮、チェロの鈴木秀美という日本を代表する古楽器演奏家を中心に結成された弦楽四重奏団の演奏を聞くにおよび、古楽器演奏の進展を目の当たりにして、旧稿に手を入れることにした。

 考えてみれば、古楽器(現在、時代楽器、period instrument,original  instrumentなどと呼ぶのが通例だが、この小論では適宜使い分けることにする)による演奏が行われるようになって以来四十年以上経つが、旧稿を書いた時点では、その歴史について総合的に書かれたものはまだほとんどなかった。それは、古楽器演奏が常に発展途上にあったからで、まだ歴史として位置づけるのはためらわれたからだろう。しかし、いまや時代楽器オーケストラ、時代楽器演奏グループの存在を無視して現在のクラシック音楽演奏を考えることはできないところまで来ている。そこで、短いながらもその歴史をたどりながら、再び、時代楽器演奏の現状と、将来の方向を考察してみたい。

第一部; 演奏小史


 まず駆け足で歴史をまとめてみよう。古楽器演奏の発足はドイツ、オランダ、イギリスの三大地点からと考えられるので、順に述べる。まずはドイツから。


  1. ドイツ

    ドイツではニコラウス・アーノンクールが1957年にウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(CMW)を創設して、まずバッハ作品の古楽器演奏に乗り出す。『ブランデンブルグ協奏曲』録音で世界的な成功を収めたこのグループは、60年代前半からから70年代中半のLP時代十年間に、器楽曲ばかりでなく、『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ曲』さらにはカンタータなどの声楽曲も次々と録音していった。この頃の『コーヒー・カンタータ』『農民カンタータ』は今でも私の愛聴盤になっている。その後、CD時代になってから、グスタフ・レオンハルトと共同してバッハのカンタータ全曲録音という偉業を為し遂げた。

     アーノンクールの活動は古楽オーケストラだけにとどまらず、モダン楽器オーケストラとして最も古い歴史を持つものの一つ、アムステルダム・コンセルトヘボウ(現、ロイヤル・コンセルトヘボウ管)を指揮して、モーツァルト後期交響曲、ハイドン交響曲集、シューベルト交響曲全集、ヨーロッパ室内管を指揮して、ベートーヴェン交響曲全集を録音している。

     さらにはブルックナーにまで手を伸ばしているが、これについては後述する。


    ムジカ・アンティカ・ケルンという小編成のグループの活動もめざましく、バッハ作品に名演奏を残している。


    コレギウム・アウレウムがモーツァルト作品を中心にレコーディングしたことで一時人気を集めたのは、1970年代初めのことである。楽器もモダン楽器と古楽器の折衷型で、演奏技巧も中途半端であったため、現在では単なる試みとしてしか評価されていない。音の響きの良さだけが取り柄だが、歴史の推移途上には必ずこのような中間形態が現れる好例として触れた。


  2. オランダ

    次は古楽の宝庫オランダだ。リコーダー奏者のフランス・ブリュッヘンは、楽器の性格上バロック音楽に接する機会が多かったためであろう、古楽器演奏志向を秘めており、慢を持して1981年『十八世紀オーケストラ』を結成した。ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの交響曲を次々に録音し、贅肉をそぎおとした、完成度が高い演奏を聞かせてくれる。声楽曲にもレパートリーを延ばし、バッハの『ロ短調ミサ曲』を録音しているが、この曲に関しては近年出色の一枚といって良いだろう。

     シギスヴァルト、ヴィーラント、バルトルトのクイケン三兄弟は、それぞれヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、フラウト・トラヴェルソを受け持つ。ブリュッヘン、レオンハルトとも親交のあるシギスヴァルトは、古楽ヴァイオリン奏法を徹底的に追求し、バッハ作品に古楽器演奏史上に残る名演を残す。室内楽グループとしては72年にラ・プティット・バンドを結成し、バッハ作品で優れた演奏を残している。対象はあくまでもバロック、古典派作品に絞りこんでおり、近年はハイドンに力を入れている。

     今年(1999年)の来日コンサートでは、ヴァイオリンに前述した寺神戸亮や、オランダのデン・ハーグ音楽院で研鑚中の赤津真言が参加していたのは、うれしいニュースだった。ちなみに、赤津は自己のグループを率いて今月(11月)初旬にリサイタルを開いている、期待のバロック・ヴァイオリニストの一人である。

     チェンバロ、オルガン奏者のトン・コープマンは79年にアムステルダム・バロック・オーケストラを結成し、バッハ、ハイドン、モーツァルトを主に演奏する。古楽器演奏には先鋭的な演奏が多いが、その中で、実に柔らかく、暖かみのある演奏をするのが特徴だ。

     最後に登場するのがチェロのアネル・ビルスマ。バッハの『無伴奏チェロ組曲』はカザルス以来の名演奏として評価されている。ビルスマはこの曲を近年モダン楽器で再録音しているが、古楽器演奏者のモダン楽器への回帰については、後にまとめて述べたい。さらにビルスマの活動は個人に留まるものでなく、ブリュッヘンとの共演もあり、この小論のタイトルにもなっているラルキブデッリのリーダーとなり大活躍を始める。


  3. イギリス

    忘れてならないのがイギリスで、話は故ディヴィド・マンローにまで溯る。やはりリコーダー奏者で数多くの録音を残しているマンローは音楽学者のサーストン・ダートと古楽演奏について話が弾んだのだろう、その学生であったクリストファー・ホグウッドが、73年イギリス初の時代楽器演奏団体、エインシェント室内管弦楽団を結成し、オーケストラ演奏に着手する。ホグウッドのモーツァルト交響曲の全曲録音は、音楽界に波紋を投げかけ、一時は「古楽器でなければモーツァルト演奏の真価は発揮できない」とまで言われた。現在はハイドン交響曲全集に挑んでいる。

     ジョン・エリオット・ガーディナー率いるイギリス・バロック・オーケストラは、モーツァルト演奏に傑出しているが、95年前半にリリースされたベートーヴェン交響曲全集は、解釈の点で、また演奏そのものの新鮮さで話題をさらった。オーケストラ演奏も優れているが、ガーディナーの最大特徴は主兵のモンテヴェルディ合唱団を率いた、声楽曲において一頭抜きん出ていることだ。ヘンデルの『メサイア』は不朽の名演と言われている。フォーレの『レクィウム』も斬新である。

     異色の団体はジ・エイジ・オブ・エンライトンメントだ。このグループは常任指揮者を置かない。チャールズ・マッケラス、サイモン・ラトルなどが指揮台に上がっている。レパートリーも広く、ベルリオーズの『幻想交響曲』まで演奏しているのだから、驚異である。

     その他、バッハのチェンバロ協奏曲全曲録音で名を馳せたトレヴァー・ピノック指揮のイングリッシュ・コンサート、ロイ・グッドマン指揮のハノーヴァーバンド、ロジャー・ノリントン指揮のロンドン・クラシカル・プレイヤーズなどの時代楽器オーケストラが活躍している。


以上が三大潮流であるが、今ではそのほか数多くの団体があリ、演奏範囲もバロック時代からベルリオーズ、ブルックナー、R.シュトラウスまで拡がっている。 つまり、その演奏内容、質が問われる時代に入ってきているのだ。したがって、時代考証的な雰囲気の強いホグウッドの演奏は飽きられ、音楽的な愉悦感を与えてくれるコープマン、時代楽器演奏での限界にまで達しようとするブリュッヘンの表現が評価されるのは当然のことだろう。

考察(過去から現代へ)


古楽器演奏が現れたとき、マンネリ化した現代楽器オーケストラの響きに馴れてしまった者の耳に実に新鮮に響いたことは確かである。ホグウッドのモーツァルトには誰もが最大の讃辞を尽くすのを惜しまなかった。だが、マンネリ化したヴァイオリン族のヴィブラートに馴れた耳は、今度はノンヴィブラート奏法に馴れてマンネリ化して当然であろう。古楽器演奏だから耳に新鮮だという時代はすでに終焉を告げている。

 演奏する側にとっても同じことがいえるとともに、聞く側にはない演奏技術の進歩と言うものがある。確かに、古楽器によるヴァイオリンソナタは耳にざらざらして聞こえ、ノンヴィブラートだから同一音を長々と歌うことがなく、アダージョ楽章はアンダンテくらいの速さになるのが普通だ。演奏家はこの弱点を何とか克服しなければならない。古楽器演奏にも淘汰の波が押し寄せてきたのだ。

 つまり、その演奏内容、質が問われる時代に入ってきているのである。したがって、時代考証的な雰囲気の強いホグウッドの演奏は飽きられ、音楽的な愉悦感を与えてくれるコープマン、時代楽器演奏での限界にまで達しようとするブリュッヘンの表現が評価されるのは当然のことだろう。

 もう聴衆は、時代楽器演奏だからという理由でコンサートを聴きに行くということはない。時代楽器演奏には素朴な響きを見つけたのだが、おかげでモダン楽器の、そしてオーケストラの豊饒な響きを逆に再評価することになった。

 95年度前半の日本楽壇の話題はブーレーズが一人占めした形になったが、このブーレーズ・フェスティヴァル、そしてそれに続く『アダージョ・カラヤン』の爆発的人気は聴衆のモダン楽器、モダン楽器オーケストラへの回帰を如実に表わしているのではないか。さらに96年はブルックナー没後百年ということで各種の団体がブルックナー・チクルスを行ったのは耳新しい。今や聴衆は、モダン楽器には大オーケストラの豊饒な響きを求めている一方、古楽器には素朴な音を求めつつも表情の豊かさ、自然さ、高い音楽性を求めている。画一的なもののみに価値を置く時代ではないのだ。

 アーノンクールは、古楽器独特のアーティキュレーションの鋭い独特な演奏方法をモダン楽器オーケストラに導入した。また、ガーディナーなどがモダン楽器オーケストラを指揮する機会がたびたびある。アネル・ビルスマのモダン楽器を用いてのバッハの無伴奏チェロ組曲再録。これもモダン楽器の音の豊かさを考慮した上でのことだろう。聴衆の耳は、モダン楽器であろうが、時代楽器であろうが、演奏の内容で判断するようになったのだ。

 既に断わっておいたが、呼び方も変わった。最近では演奏する作曲家の時代当時使用されていた楽器を用いるようになったので、時代楽器(ピリオド・インストルメンツ)と呼ばれるようになってきている。オーセンティック・インストルメンツと呼ばれる場合もある。そしてこれまではすべてヨーロッパの状況だった。それが北米大陸、つまりアメリカ、カナダへ移ってくると一変する。


第二部 ラルキブデッリ登場


まず、こうした状況下に登場したのがビルスマ率いるラルキブデッリである。ラルキ(弓)ブデッリ(ガット弦)、つまりガット弦楽器を意味する。メンバーはそれぞれストラディヴァリ、アマティなどのオリジナル楽器、またはその複製を使用し、ガット弦を用いることにより、現在普通に使われているスティール弦楽器とは一味違った音作りを目指しているのだ。確かにテンポは従来の時代楽器演奏同様どの曲を採っても速い。が、音楽の躍動性は遥かに高く、アダージョ楽章でも古楽器独特の長音の真ん中で膨らむような嫌味から解放されている。時代楽器演奏の特徴を最も活かした上、欠点を克服したものになっているのだ。

 昨今の現代オーケストラの演奏、モダン楽器による演奏はテンポが概して遅めであり、その傾向は演奏者が年を取れば取るほど増す。古楽器演奏が新鮮に響いたのは、一つにはそのスピード感であったのだが、その美点を最も強調しているのがラルキブデッリであり、これから紹介するグループである。その快適な躍動感と、高い音楽性は絶対的な音楽美学的観点から見ても軽んずべきでない地点にまで到達していると言ってもよいのではないか。

ディスク紹介


時代楽器演奏の現在という意味で、すでにリリースされているラルキブデッリのディスクを紹介しておこう。

 まずモーツァルト二曲の弦楽五重奏曲、ハ長調K・515と、ト短調K・516。この演奏を聞いてすぐに古楽器演奏だと断定できる人はどれだけいるだろうか。おそらく当惑するのではないか。古楽器らしいが、そうらしくないところが聞こえる。ビルスマの狙いはここにあるのだろう。時代楽器を用いることによって、当時の音に限り無く近づくとともに、切れ込みの鋭い演奏法で緊張感を保ち、ガット弦特有の多彩な音色を出す。柔らかでいて図太いチェロの低音、絹のように細く繊細なヴァイオリンの高音。

 ト短調の曲の方の冒頭を聴いて「モーツァルトの悲しみは疾走する」という名言を吐いた小林秀雄は、このグループの演奏を聞いたら何と言うだろう。ディヴェルティメントK・563も、その切り込みの鋭さはもはやディヴェルティメントと言う範疇からはみ出している。

 チャールズ・ナイディックとの共演盤、クラリネット五重奏曲もすばらしい。この盤では、ヴァイオリンソナタK・378の編曲版を聴けるのも楽しみの一つだ。しかしラルキブデッリの小節の一拍目に付けるアクセントの多用は多少耳障りに聞こえる。この曲では弦楽部はそれほど張り切る必要はないだろう。もちろんバセット・クラリネット使用。

 ロマン派作品集では、ウェーバーのクラリネット五重奏曲の天馬駆け上がるが如き躍動感はこれまでに聞いたことがなかった。おそらく現在最上の演奏ではあるまいか。この作品では、95年、リチャード・ストルツマン/東京クォルテットが他のモダン楽器奏者の演奏を凌ぐCDをリリースしたばかりだったが、こちらは洗練されたモダン楽器の最高峰であろう。この二つの演奏は聞き比べてみるとよい。時代楽器演奏と、モダン楽器演奏の本質的な相違が解るだろう。チャールズ・ナイディックの素晴らしさは言うまでもなく、ラルキブデッリの演奏も目、いや耳を洗われるようだ。

 ただこの盤では、後述のオンスロウとも親交のあったアントニン・ライヒャ、フンメルの作品が取り上げられているが、ウェーバーの後に聞くと、気の抜けたビールを飲んでいるような感は免れない。まだクルーゼルのほうが良かったのではないかという気がする。いかにウェーバーが傑出した作曲家であったかを知るには格好の盤かも知れないが。またナイディックはモッツィフィアートという管楽器編成のグループのリーターをつとめてもいる。

スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ(SCP)


次に、ケネス・スロウィック率いるスミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ(SCP)を紹介しよう。全員がスミソニアン博物館所蔵のストラディヴァリを用いるという豪華さ。使用楽器がクレジットされているが、それを見ただけで目の中に$が並んでしまう。どれもこれも十七世紀後半から十八世紀前半製の紛れもない、名前付のストラディヴァリそのものなのだから。このグループの名は総称名であり、楽器編成により、キャッスル・トリオ、スミソニアン弦楽四重奏団、スミソニアン室内楽団と名を変えるが、すべてスロウィックがリーダーで、ガット弦楽器を用いるのは言うまでもない。

 まずボッケリーニから聞いてみようか。ボッケリーニの弦楽五重奏曲は弦楽四重奏曲にチェロがもう一本加わったスタイルである。スロウィック自身もチェロ奏者であるが、ここではビルスマが参加している。このディスクには作品十一の四から六まで納められているが、やはり音楽が単に時代考証的な厳密さを追うだけでなく、躍動感があり活き活きとしている。第一ヴァイオリン、マリリン・マクドナルドの速いパッセッジの正確さと音色の美しさは、現在一線でソロ活動しているソロ・ヴァイオリン奏者顔負けだ。特に、第六番『鳥小屋』の鳥の鳴き声の模倣においては、スティール弦楽器ではとてもこのような表情は作れまい。これまで黙殺されていた作品に光を与えたまったく新鮮なボッケリーニだ。

 ガット弦楽器を用いるという共通の音楽観を持つ点でビルスマとスロウィックは一致している。そこで、ラルキブデッリ・アンド・スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズというスーパーグループが編成され、すでにリリースされたディスクも数多く、そのいずれもが最高級の出来なのでそれらをこれから紹介しておこう。

 オンスロウなどという滅多に耳にすることのないフランス人作曲家の手になる五重奏曲集があるが、これは特筆に値する。この五重奏曲はボッケリーニスタイルで、第一ヴァイオリンがよほど腕達者でないと弾けない。ヴェーラ・ベスは見事にその大役を果たしている。弦楽アンサンブルで第一ヴァイオリンがリードするのは普通だが、これほどのテクニックを要求されるものにはお目にかかれないのではないか。それでいて全体は形式的に均整の取れたものになっている。それが最大の魅力だ。

 メンデルスゾーンの八重奏曲。小生がこのグループに興味を抱くきっかけになった盤のこのスピード感、これまでの名演をすべて吹き飛ばす快演だ。やはり、メンデルスゾーンは明るく爽快であって欲しい。シュポアの作品集もある。さらには、ブルックナーの五重奏曲まである。この曲はほかにそれほど録音が多い訳ではないが、それらよりもよほどブルックナーらしいのは彼らの音楽感が確かである証拠だ。

 さて、SCP最大のお奨め盤の登場。ちょっと大きめの編成でバーバーの『アダージョ』、エルガーの『セレナード』、R・シュトラウスの『メタモルフォーゼン』などの弦楽作品を演奏している。この『メタモルフォーゼン』がすごい。これだけ精緻な演奏でしかも豊かな音楽性を持っているものにはまだお目にかかったことがない。カラヤンの名演の後にこれを聴くのも一興というものだ。

 さて、カナダのブルーノ・ヴァイル指揮ターフェル・ムジークというグループも話題になった。モーツァルトのセレナードの交響曲編成盤ばかりというおもしろいアルバムをリリースしているほか、多数ある。が、ディスク紹介はここまでにしよう。

考察(現在)


これまでは、単に聞き馴れない響きを出すということのみで古楽器がもてはやされた感があったが、今ではもうそれは通用しない。古楽器演奏も現代楽器演奏も区別する事なく、良いものは良いという冷静な判断が下される時代に入った、とはもう述べた。ラルキブデッリ、SCPはその規準に叶った最初の演奏団体なのではないか。モーツァルトの弦楽五重奏曲を聴いていると、往年のブダペスト四重奏団の演奏を彷彿とさせるのは、ラルキブデッリの演奏が時代を超えた普遍的な美を醸し出している証拠にはならないだろうか。

 これからも多くの時代楽器演奏家、演奏団体が登場するだろう。しかし、現代楽器同様に演奏の本質が問われてきている。何故、時代楽器を使わなければならないのか、それはモダン楽器演奏と比べてどのような利点があるのか、安易な追随はもはや通用しない時代なのだ。

 その流れは着実に日本にも訪れている。出足の遅い日本だが、ヴァイオリンの寺神戸亮、チェロの鈴木秀美などという世界の一線級の腕前を持った時代楽器演奏家が現れてきている。”水戸デラルコ”は、そうしたメンバーの集まりであり、今年(99年)の結成コンサートでは、ハイドン、モーツァルトの弦楽四重奏曲を披露して、その実力の程を示した。

 その演奏はもはや時代楽器によるものとは思えないほどで、いかにそれぞれのメンバーが楽器の演奏技術をマスターし、次の表現、解釈という問題に踏み込んでいるかを納得させられた。

 しかし、世界レヴェルで見てみれば、すでにクイケン四重奏団、SCPという優れたアンサンブルが質の高い演奏を提供している。”水戸デラルコ”が世界に雄飛するには、ただ、日本人お得意の『人まね』によるのではなく、彼らにしか出来ない表現を獲得する必要がある。

 以前、第一ヴァイオリンに久保陽子を配したJSQ(Japan String quartet)の結成コンサート、ベートーヴェン弦楽四重奏曲チクルス第一回について、その踏み込みの甘さを指摘した一文をとある新聞紙上に発表したが、鳴り物入りで登場したこの弦楽四重奏団はいったい音楽シーンに何を齎したのだろうか。  これだけの人材を擁した時代楽器四重奏団が、JSQと同じ轍を踏まないよう、 心から願うものである。勝負はこれからなのだ。

 そして、可能性はいくらでもある。ヴィヴァルディの『四季』といえば、イ・ムヂチが決定盤、アーノンクールが対抗馬とされていたが、イタリアの古楽グループ、”イル・ジャルディーノ・アルモニコ”が見事にそうした因襲的な演奏を覆して、こうした人工に膾炙した曲にも、まだまだ新しい表現の可能性があることを示したばかりである。”水戸デラルコ”にも、そうした独自の表現、解釈、演奏スタイルを獲得することを期待したい。



第三部 ブルックナー交響曲


「まさかブルックナーまで時代楽器で演奏されはしまい」とは誰しも思うところだろうが、案に相違してこれが実際に演奏された。時代楽器演奏史上、ブルックナー演奏史上画期的事件と思われるのでここにとりあげる。〈ブルックナー・フェスト95〉で、ロジャー・ノリントン率いるロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(以下LCPと略す)が演奏した交響曲第三番のFM放送を聴いたのである。LCPといえばもちろん時代楽器演奏グループであるから、ここでもブルックナー存命時代の楽器を用いての演奏だ。


初稿と改訂稿の問題


用いた楽譜はもちろん1873年版の初稿。モダン楽器オーケストラが現在一般に用いるのはノヴァーク版第三稿(1889年版)であり、初稿とはスケルツォ楽章を除いて各楽章かなり異なる。この曲はワーグナーに献呈されたので副題を『ワーグナー』と言う。改訂版では初稿に現れる第二楽章のタンホイザー序曲、随所に響くワーグナーの和声法と対位法がカットされているので、『ワーグナー』という副題が適切なのは初稿だけだと思われる。言うまでもなく献呈されたのも初稿だったはずだ。誰がつけたのか知らないが、不適当な副題づけはやめるべきではないか。

 エリアフ・インバルが初稿で演奏したCDがあるので、初稿と改訂稿の構造の差についてはご存じの方も少なくないだろう。筆者の印象としては初稿のほうが、全体的な音楽的流れに有機的関連が多く見られ、木管楽器のフレーズが活きているように思われる。

 最も異なるのは終楽章である。第一楽章冒頭のテーマで華々しく締めくくられるノヴァーク版も金管の派手さ加減ではフィナーレにふさわしいかも知れないが、そこにいたる流れが不自然なのはどうにもいた仕方無い。一方、インバルの初稿による演奏では冗長さを免れていない。それだからこそ改訂されたのだろう。

 ブルックナー演奏の一つの問題点は、この冗長さをどのように解決するかに注意を払わねばならないことだ。改訂稿は大体においてこうした冗長さを逃れるために一部をカットする。カットすると、それでなくとも流れが悪いと指摘されている構造に、さらに亀裂が入り、音楽の流れは一層悪くなってしまう。初稿をとれば冗長、改訂稿では音楽の寸断。こうしたディレンマを抱えながら、現在、ブルックナーは演奏されているのである。


ノリントン/LCPの演奏


さてここにノリントンの演奏の卓越さを見る(聴く)ことができる。まず全体の楽器のバランスだ。モダン楽器の演奏ではやたらブラスが吠えたてて他の声部を聞こえなくしてしまう例が多いのだが、弦楽器と管楽器のバランスがよく、オーボエなどの木管が非常によく聞こえる。これは時代楽器のためにブラスがそれほど金属音をたてないことによるのだろう。また、当て推量であるが、弦楽部と管楽部の人数が適当であることによるのかも知れない。

 次に、テンポを多少速めに設定することが、各部の関係を密接に感じさす。それにより、音楽の流れに必然性が現れ、冗長さから逃れられる。特にこれは終楽章において顕著に聞かれ、初稿が必ずしも単に長いだけではないことがわかる。ブルックナーの長さは必然的に長くなったのだということをこの演奏が教えてくれた。

 LCPのブルックナーが、時代楽器を用いることによって、初稿を用いることによって、そして解釈によって、ブルックナー演奏における様々な問題点が回避できることを示したのは大きな意義がある。それだからこそ追補として書き加えた。今回は第三番の演奏だったが、これからも他曲を演奏して時代楽器を用いる利点をさらに教えて欲しいものだ。

考察(未来の展望)


モーツァルト、ハイドンでは時代楽器演奏に賛同する方も多いだろうが、ブルックナーの時代楽器演奏に関しては、どうか、と思われる方も多いに違いない。そうした方々にもぜひノリントン/LCPのブルックナーを聴いていただきたいと思う。目からうろこが落ちるかどうかは保証のかぎりではないが。またおそらく他の時代楽器演奏団体も早晩ブルックナーに焦点を合わせてくることも考えられる。

 とは、96年時点で予期したのだが、99年11月時点においても、時代楽器によるブルックナー交響曲演奏はそれ以外に聞いたことがない。やはり、解決すべき点が多すぎるのだろうか。

 時代楽器演奏といっても、いかに秀れた演奏効果をもたらすかという点において目標はモダン楽器演奏と同じである。ただ、モダン楽器演奏においては、発達した現代楽器の性格を活かして、十分な音量と、豊潤な音質の音楽をつくる一方、時代楽器演奏においては、作曲家存命時の楽器を用いてその当時の音質を用いながら、それにふさわしい音楽づくりをするのである。

 このとき注意すべき点は、「時代楽器による演奏だからその当時の演奏を聴くことができる」と誤解しないことだ。解釈はあくまで現代人の解釈なのであって、作曲家存命時の人間のものではない。そして、その作曲家存命時にどのような演奏がされたかは誰にもわからないことなのだ。つまり、演奏家は時代楽器を用いたからといっても、その時代楽器によって現在もたらされる最高の演奏効果を目指している、ということだ。

 我々も時代楽器演奏に、時代楽器の機能にふさわしい現代的解釈を求めているのであって、決して演奏技巧の拙劣な作曲家存命時の音楽を聴こうとしているのではない。これは多くの音楽愛好家が当然のごとく思いこんで忘れているが、大きな間違いだ。

 それはまずラルキブデッリに聞かれた。彼らの技巧のなんと確実なことか。作曲家存命時代の演奏家がこれだけのテクニックを身につけていたとは考えにくい。モダン楽器から比べると格段に演奏しにくい時代楽器をこのように見事に操ることは、楽器の時代考証を超えて、「その楽器を用いることによりどれだけの演奏効果が出せるか」という現代の課題に挑戦している。しかも我々の耳を驚かすくらいにその難点を克服しているのだ。

 もし仮に我々が作曲者存命時に戻ることができて、その時代の演奏を聞くことができたとしたら、我々はその演奏、楽器の音に満足できるだろうか。ブルックナーの第三交響曲の初演に際して、コンサートの最後まで残った聴衆は二十五人だったそうだが、果たして我々はその二十五人の中に入るだろうか。

 我々は近代を除いて、過去の演奏がどのようであったかこの耳で確かめることはできない。ただ確かなのは、音楽も進歩して止まない、ということである。それから想像するに現代の演奏は作曲者の想像以上に洗練されているのだろう。作曲者の意図以上のことが行われているのかも知れない。楽器は当時のものかも知れないが、精神は現代に属するのだ。

 時間を戻すことはできないが故に、人類の進歩を止めることはできない。音楽もただ進むだけなのである。モダン楽器にしても技術的な改良が加えられ、さらに洗練された音を出せるようになるだろう。時代楽器は構造解析が進み、さらに適切な演奏法が開発されるだろう。それに見合うように演奏技巧も発達していく。

 そのよい証拠が、アーノンクールの演奏だ。60年以前(フィルムに残っている)の稚拙なものに比べて近年の演奏のなんと洗練されていることか。これは古楽器演奏法の進歩の確たる証拠だ。

 これから考えるに、時代楽器を用いての演奏はさらに磨きがかかっていくと思われる。モダン楽器演奏が洗練されて行くと同じように洗練されていくだろう。『洗練』、これは現代人の音楽美観の底流を成すもので、時代楽器による演奏とてこの美観から逃れることはできないのである。

 ラルキブデッリ、SCPの演奏も『洗練』という現代の美観の衣装をまとっているのである。であるからこそ、聴衆であるわたしたちに強烈にアピールするのだ。イル・ジャルディーノ・アルモニコは、それに反しているようでいて、実は、楽器の並外れた演奏技巧に裏打ちされた『即興性』という、バロック時代以前の音楽のあり方を再現しているからこそ、因襲から開放された新鮮味をわたしたちに与えてくれるのである。

「ノリントン/LCPのブルックナーで、ホルンの音が不安定なところが何箇所かあったが、次の演奏では、おそらく克服されていることだろう」

 これは、前稿でわたしが結語として用いた言葉である。しかし、それ以降、時代楽器によるブルックナー演奏は耳にしていない。このことに関しては本文ですでに触れた。

 今回の締めくくりとして登場するのは、現在、もっとも”面白い”演奏を聞かせてくれるアーノンクールである。すでに、ブルックナーの第三番はディスクが発売されているが、ここでは今年ウィーン・フィルを振った第七番について書いておきたい。

 これは、今年のウィーン芸術週間からFM放送されたもので、まだディスクはない。第七番といえば、ブルックナーの交響曲でも取り組みやすい一曲であるが、普通、演奏時間は70分を超える。ブルックナーといえば、『アダージョ』という合い言葉がでるくらい緩徐楽章がゆったりしているのが特徴だが、なんと、アーノンクールは、この曲を60分を切って演奏したのである。おそらく、音楽演奏上、始めてではないか。

 しかも、その演奏は決して奇をてらったものではなく、全くオーソドックスであり、ブルックナーを十分に感じさせるものだった。詳細は略すが、新規な解釈、因襲に囚われない解釈はいつでも可能なのであり、それは、楽器や演奏形態を問わない。ただそれを実行して、しかも、作曲者の意図の延長上に位置する演奏を提供できるかどうかが問題なのである。こうして音楽演奏も進化していく。

 時代楽器演奏には、まだまだ、モダン楽器による演奏よりも多くの新規な解釈の可能性が残されていると思われる。すでに、時代楽器演奏も定着した感があるが、そうした限りない可能性に向かって、進んで行って欲しいと思う。

 旧稿に書き足したため、全体の焦点がぼやけてしまった感は免れない。が、筆者の言わんとする点は常に一点に収束する。伝統に沿いながらも、新規な解釈、演奏で、常に新鮮な音楽作りをしていくこと。これなくしては、演奏する意味さえない、とまで言いたいくらいである。

 ずいぶん、長くなった。時代楽器演奏という題を借りながらも、筆者の演奏家に対する願望を述べた。これは、筆者の音楽批評家としての立場である。現在は批評家としての立場さえ問われる時代なので、その点については稿を改めるのが得策であろう。

(了)

       1999年11月      川鍋 博

旧稿は『音楽の世界』1996年11月号に掲載

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