トップページ>>MIDORI(五嶋みどり)演奏論

本論

  オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』を、 「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」という一文で締めくくる。 ミドリが若人に音楽を教えているのは有名だが、通常は「語り得ない」と思われている音楽をミドリはどのようにして教えるのか。ウィトゲンシュタインはさらにこうも言う。

「示されえるものは語り得えない」と。

音楽は語り得ないかも知れないが、実際の演奏によって示すことができる。つまり、音楽を教えることは、「実際の演奏を通じて、音楽とはいかなるものであるかを示す」ことによって可能になるのだ。では、ミドリは何を〈教える〉のか。

 まず、ドイツ・オーストリア伝統音楽の持つ、『主題と展開』による純粋音楽的生命力の生成である。ミドリがモーツァルトベートーヴェンなどのソナタを演奏するとき、展開された後の再現部の主題が、提示部のものよりはるかに活き活きとしているのが聞き取れるだろう。音楽を学ぶ第一歩は、ピアノのキーを叩いて音を出したり、ヴァイオリンを弓でひっかいてキーキー音を出すことよりも、この音楽的生命力を感じ取ることのほうがよっぽど大事だし、また、レッスンの、単調な運動の繰り返しには耐えられないが、すばらしい演奏を聞いたときには心の底から感動するのが、生身の人間というものだ。音楽にはこうした生命力を喚起する力があることを、まず、ミドリは伝えようとする。

 この生命力は伝統音楽だけに備わっている訳ではない。そのアンチ・テーゼとなる民俗音楽にも、それぞれ特有の形で保持されている。ただ、伝統音楽は形式的に整っていて理解しやすいが、それが原因で逆に生命力が感得されにくい傾向がある一方、民俗音楽においては確固とした形式がないために、ただ感情に流れやすい、という相違があるだけだ。また、伝統音楽は、協奏曲、ソナタともに豊富なレパートリーを誇るが、民俗音楽には協奏曲や無形式の曲はあるにしても、ソナタが少ないというジャンル上での問題もあるだろう。そうした理由で、音楽を学ぶ場合には、定石として、形式を理解するためにメソッドの確立している伝統音楽から入り、そこで音楽の持つ生命力を一応理解した上で、民俗音楽に取り組むのである。

 ミドリも型通りにこの定石を踏んで、ドイツ音楽から学んで行くのだが、おそらく学ぶと同時に、すでに教えてもいたのではないか。というのは、教える対象はまず他人であろうが、実は、自分にも〈教える〉からだ。それは、往々にして〈確認〉という形を取る。まず、スコアを見、この音はどのような必然性をもって書かれ、実際に演奏する場合には、どのような効果が出せるようにすればよいのか、前もって十分に検討しておく。ベートーヴェンはあるクォルテットを作曲した際に、「これでよいのか? そう。これでよいのだ」と、一々確認しながら筆を進めていったそうだが、ミドリの場合は、実際の演奏において、すでに考え抜いたアイディアを一つ一つ確認しながら歩んで行くのである。

 こうした演奏は、比類ないほどの緊張感を産み出し、聴衆はその筋肉質の演奏に否応なしに引きこまれてしまうだろう。一つ一つのフレーズがすべて意味を持って弾かれ、必然的にソロイストはモノロギストとなる。アレグロが躍動感に満ちあふれているのは言うまでもなく、モノロギストが真にモノロギストとして語るのは緩徐楽節においてであり、弱音で秘めやかに、しっとりと歌うのである。そして、独奏部、カデンツァでは極端に間合が長くなり、ときには音楽の流れさえ堰き止めてしまう危険さえ冒す。この冒険はスリリングな演奏を好む聞き手にはこの上もない喜びをもたらし、最高の評価を与えられても不思議はないほど、魅力的である。ミドリの確認奏法は、たしかに彼女が他の凡庸な演奏家から一頭抜きん出ることを可能にしている。

 しかし、反面、意識的ではないにせよ、協奏曲としてのオーケストラとの兼ね合い、ソナタでのピアノとのコラボレーションが第ニ議的になる傾向は否めない。楽曲の媒介的・分析的把握、そして、直接的・直観的な演奏行為。弁証法的には、すでに昇華されているミドリの演奏には、一体、何が足りないのか。ふたたび、言語論に助けを求めてみよう。

 言葉の機能としては〈叙述〉と〈説明〉がある。事実全体をあるがままに述べていく叙述は真に聞き手を感動させる力を持つが、ものごとを分析的に述べる説明にそうした力はないとされる。音楽に関しても、この論法が当てはまるのではないか。音楽を〈叙述〉するとは、すなわち、作曲家の、そして、それぞれの作品の〈差異〉を明確にしながら固有の語り口で演奏することに他ならない。言い換えれば、自己と作曲家が一体になることだ。

 ミドリの今までの方法、教えること、そして、確認をよく考えてみると、それは説得であり、説明にすぎないことがわかる。たしかに、ミドリのテクニック、一音とて反省なしに演奏はしない〈確認〉には感心せざるを得ない。が、しかし、往年のヴィルトゥオーソが貧しい技巧にもかかわらず、真に感動的な演奏を残している事実を十分に考えに入れると、ミドリの演奏が心からの感動を与えないとしたら、それは、彼女が、作曲家の個性よりもスコア分析を先行させるという、現代の演奏家全体に感じられる共通の陥穽に陥っていて、時代の潮流には逆らえないでいるのかも知れない、と想像がつく。説明された音楽は、聴衆を感心させはしても、感動を与えるとは限らないからだ。叙述しない演奏、すなわち、作曲家独自の語り口をないがしろにした演奏がどれほどの感動を人に与え得るのか、ミドリは十分に確認せねばならないだろう。

 スコア分析はいくらしてもしすぎはなかろうが、そこから作曲家が楽曲に託した、音楽の真の目的である「音の楽しみ」を表現できるようになって始めて、ヴィルトゥオーソと呼ばれるにふさわしい音楽家になることができる。これだけ資質に恵まれたミドリのことだから、現在の息苦しい音楽語法を超克して、余裕を持った音楽を提供できる、真のヴィルトゥオーソとして大成する日は、それほど遠くではあるまい。(了)

『音楽現代』99年4月号:NII論文ID(NAID) :40003972883


五嶋みどり(MIDORI,ミドリ)十枚のCDの軌跡

 本拠地のアメリカではMIDORIで通っているので、ここではミドリと呼ばせていただく。《チャイコフスキー・ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲》(一九九五・七年録音)が発売されたことで、リリースしたCDが、ちょうど十枚になった。初録音が一九八八年のパガニーニの《カプリース》だから、まる九年かかっている。ペースとしては、およそ、一年一作。乱発しないで、自分のリサイタル、コンサート、財団の教育活動と合わせて、確実にマイ・ペースの音楽人生を送っているようだ。

 十枚と言えば、ちょうど数字としても区切がいいし、最近のアルバムでの成長ぶりを考えても、この辺で、ミドリの演奏理念の軌跡を辿ってもいいのではないかな。


1.《パガニーニ・二十四のカプリース》1988年録音SRCR2070
生まれは1971年だから、ミドリ、十七才のときの録音。十才(説がいろいろとある)のデビューとしては、遅すぎる初録音だが、とことんまで考え抜いて、一曲一曲の持っている音楽を、見事なまでに弾き分けている。あくまで、推察だが、このディスクがグラミー賞にノミネートされたのは、パガニーニ作品の超絶テクニックに対してではなく、その音楽性が評価されたからだろう。テクニックだけを考慮すれば、超人的演奏はほかに掃いて捨てるほどあるからだ。

 ここでは、いかにミドリが曲の形式、曲想を大事にしているかがわかる。ミドリは、すでにこの曲で、一つの楽曲から、どのようにしたら最高の音楽性を抽き出することができるかという、演奏姿勢を示している。


2.《J・S・バッハ、ヴィヴァルディ・ヴァイオリン協奏曲集》PHCP-3853
 ピンカス・ズーカーマン指揮(ヴァイオリン)セント・ポール室内管弦楽団/1986年録音

題名通り、ズーカーマンとの共演盤、というより、ズーカーマンおじさんのお誘いとあっては、断わるわけにはいくまい。二重協奏曲が二つあり、ミドリは、ここではバッハの《協奏曲第二番、ホ長調》しか独奏していない。この曲での特徴は、たとえ素材がバッハであろうが、ミドリは自己の本質的にロマンティックな演奏スタイルを貫くことのように思える。それは、アダージョ楽章を聞けば、すぐに納得できるだろう。

3.《パガニーニ・ヴァイオリン協奏曲第一番/チャイコフスキー》PHCP-10599
レナード・スラットキン指揮・ロンドン交響楽団1987年録音
スラットキンというという指揮者は、こうした、悪く言えば表面的、よく言えば愉悦感あふれる音楽に関しては最適任者だ。しかし、音楽という、本来の『音の楽しみ』を味わわせてくれるのだから、それでスラットキンの価値が薄れるわけではない。

ミドリは、ときにはすばらしいテクニックで、ハッとさせるようなことがあっても、実にのびのびとしたヴァイオリンの音で、耳を満足させてくれる。第一楽章には、カデンツァが五分以上もあって、名人芸のソロも十分楽しめる。録音のよさも手伝って、フィル・アップされたチャイコフスキーの《憂鬱なセレナード》《ワルツ・スケルツォ》とともに、ヴァイオリン音楽を楽しむ見本ともいえるアルバムだ。


4.《ドヴォルジャーク/ヴァイオリン協奏曲・ロマンスなど》30DC-5310
   ズビン・メータ指揮・ニューヨーク・フィル/ライヴ録音1989年
さて、ソニーに移籍した第二作は、ドヴォルジャーク。なんと地味で、しかもライヴときている。ハデなパガニーニから一転して、ドヴォルジャークを録音した理由はただ一つ、民俗音楽への接近しか考えられない。

 ご存じの通り、この曲はヴィルトゥオーソ的なテクニックもほとんど必要なく、ただ重要なのは民俗音楽の持つ、単純な旋律の美しさ、そして、舞曲の生命力を表現することだけだ。協奏曲の第二楽章に、この単純な旋律の美しさが、典型的に現れる。パガニーニは、テクニックでごまかせても、こうした単純な旋律にごまかしはきかない。いかに〈歌う〉かが命なのであり、その意味では《ヴァイオリンとオーケストラのためのロマンス》も捨てがたい。そのリリカルな旋律美は、前述の《憂鬱なセレナード》と共通するところがある。そして、もう一つの舞曲の生命力を、ミドリはフィナーレでいきいきと歌っている。


5.《バルトーク・ヴァイオリン協奏曲・第一番・第二番》CSCR-8290
    ズビン・メータ指揮・ニューヨーク・フィル/録音1989,90年

 さて、ミドリの音楽の巾を大きく広げたバルトークの登場。バルトークが、採取した民謡の旋律をもとに作り出した旋法は、ほかのどれとも異なっている。その意味では、民俗音楽という枠には収まりきらない、バルトーク独自の音楽だから、もうすでにアイディアは現代音楽の進む方向を示している。ミドリは、ここではじめて、伝統的な調性によらない、各種の旋法へ挑戦することになる。

 五音音階あり、ディアトニーク、半音階、十ニ音音階あり、その上にバルトーク独自の音列が加わる上に、オーケストラとの関係が実に緊密になっている。よほど、一つ一つのフレーズをじょうずに弾き分けないと、人類が産み出した最高のヴァイオリン協奏曲の一つ(おおげさすぎはしないと思う)を演奏する意味がない。

 第一番は、まだバルトークが自分の音楽語法を確立しないときの作品で、ロマンティックな要素が多分に残っている。が、 第二番は、真にバルトークの語法が開花した、バルトークの作品のなかでも傑作中の傑作ゆえ、ただ、演奏するだけでも至難なわざだ。ここで、ミドリは得意の〈歌〉に重点を置く。そのために、第二楽章のアンダンテ・ソステヌートが、これまでの演奏には聞かれなかったほど、〈歌〉に満ちている。
 とはいえ、バルトーク音楽の持つ野卑で、肉感的ないやらしさを表現するには、ミドリの演奏は品が良すぎる。いつも、気品がたかく、折り目正しいという、ミドリの演奏の性格が、そのままこのバルトークにも表れてきてしまうのだ。『バルトークらしさ』があって、その上に、自己独特の語り口が活きてくる。これが、本来のあり方だと思う。


6.《五嶋みどり/カーネギー・ホール・リサイタル》SRCR-2092/1990年
今まで、ソナタを一つも録音しなかったミドリは、ここで、ベートーヴェンの第八番と、R・シュトラウスのソナタを弾いている。しかし、ライヴでこれだけの立派な演奏ができるのに、なぜ、これまでスタジオ録音しなかったのか。ミドリの演奏は、もちろん現代的なロマンティシズムを目指しているが、それは、ドイツ・オーストリア伝統音楽を消化したの上であることが、このCDできちんとした証拠として残されたわけだ。

 ロマンティックでありながら、節度を守る。言葉でいえば簡単だが、実際の演奏に反映させるのは至難なわざというもの。ベートーヴェンはいきいきとしていて、R・シュトラウスはダイナミックでいて、その第二楽章はため息が出るほど美しい。

 欲を言えば、エルンストの《夏の名残りのばら》には、各変奏曲の性格にもっと変化があってよいし、ラヴェルの《ツィガーヌ》には、ジプシー・ヴァイオリンの『あくの強さ』がもう少し欲しい。が、どれも一級の演奏であることに間違いはない。


7.《アンコール!》SRCR9055/1992年録音
CDシングル 《愛の挨拶》SRDR7003=《アンコール!》から、エルガー:愛の挨拶/クライスラー:シンコペーション,サラサーテ:序奏とタランテラ 収録

はじめての小曲集。選曲に、すでにミドリの性格が現われている。小曲集には欠かせない、クライスラーの《愛の喜び》《愛の悲しみ》を捨てて、《プニャーニのスタイルによる前奏曲とフーガ》などを選んだり、ショスタコーヴィチの《ニ十四の前奏曲(ツィガノフ編曲)》から四曲、自分好みのものを選んでいる。

 シマノフスキの《神話》の第一曲《アレトゥーサの泉》も、このなかでは異色の曲だ。ピアノが、いくぶん、物足りないのは残念だが、ミドリは、よく、この曲の表面的な装飾性に秘められた、シマノフスキ自身の心象風景を表現している。

 バルトークの《ルーマニア民族舞曲》、ロシア五人組のキュイや、ポーランドのバーチェウィッチ(知らなくて当然)、ベルギーのイザイ、など、世界の音楽を知るためにも絶好の選曲になっているのは、教育活動の結果、もしくは目的なのかも知れない。


8.《シベリウス・ヴァイオリン協奏曲/ブルッフ・スコットランド幻想曲》
 ズービン・メータ/ニューヨーク・フィル/SRCR-9651/1993年録音

シベリウスから。冒頭、あまりに弱音なので、システムが故障したのかと思った。バルトークからふたたび、通常の音階による音楽へ戻ったわけだが、そこで経験した〈歌う〉こと、そして、民俗的な『荒々しさ』が、この曲でいかんなく発揮されている。北国の寒々さを象徴するような、この、厳しい音楽において、ミドリは十分に〈ため〉を作って、歌い続ける。やはり、品は良いし、形式感は保たれているが、それ以上に、音楽に自分自身をぶつけるようになった。それは、ときには、息苦しいほど切羽つまって聞こえる。だからこそ、よけいに、アダージョ楽章にほっとするのだが、フィナーレでは、また、厳しい音楽が戻ってくる。

 土俗的な低弦のオスティナート・リズムに乗って、ミドリのヴァイオリンは、いままでにないほど力強く、聞き手に迫る。こうした語り口は、これまでのミドリの演奏には聞かれないものだった。一作ごとに、着実にミドリは成長していっているのがわかる。

 ブルッフ。《スコットランド幻想曲》とあるように、この曲は厳密な協奏曲というよりは、独奏ヴァイオリンを表にだした〈幻想曲〉であって、過去を回想する性質が強い。したがって、音楽的には、厳しさよりも、『なつかしさ』『思い出』といった感傷的な性質を出すことが重要であり、ミドリもその点は心得ているのだろうが、どうしても、厳しさ、とか、けじめが先に立ってしまう。「遊ぶ余裕を持て」というのは、二十歳を過ぎたばかりのヴァイオリニストには、無理な注文というものか。


9.《エルガー/フランク・ヴァイオリン・ソナタ》SRCR-1974/1997年録音
ソナタ・スタジオ初録音。エルガーは、ミドリには格好の作曲家のように思える。ロマンティックでありながら、イギリス紳士としての気品が作品に満ちあふれている。時代に流されまいとする、エルガーの反骨精神の結晶ともいうべきこの作品を、ミドリは、まるで、自分の言いたいことでもあるかのように弾いていく。第二楽章には、まるで貴婦人が登場するようなフレーズが出てくるのだが、ミドリの姿に思えてしようがない。

 フランク。形式と内容が一致した、ヴァイオリン・ソナタの最高傑作の一つ。本質的にロマンティックで、形式の整ったこの曲は、ミドリの十八番でもある。こうした曲で、何を語ればよいのか。ピアノのことでも言おうか。ミドリは一貫して、ロバート・マクドナルドをパートナーに選んできたが、今までのところ、彼との相性は非常によいようだ。というのも、ピアノの役割がとても大きな比重を占めるフランクを聞けば、その資質が露呈してしまうからだ。この、みずみずしさを表現するには、ピアニストにも豊富な音楽性が期待されるのだが、マック(ハンバーガーのようだ)はその期待に十分に答えている。


10.《チャイコフスキー/ショスタコーヴィチ(第一番)・ヴァイオリン協奏曲》 SRCR2259/1995・1997年 ライヴ録音/クラウディオ・アッバード指揮/ベルリン・フィル
とうとうアッバードBPOとの共演。しかもライヴだから、力も入ろうというもの。しかし、ミドリは貫禄負けしていない。チャイコフスキーでは、オーケストラと合わせるところがずいぶんあるが、ミドリは自分の弾き方に妥協をしていない。一層、語法は厳しくなり、カデンツァにはかつてないほど十分に時間をかけて、自己表現に徹する。おそらく、これだけ音楽性の高められた演奏は、今までにはなかったのではないか。

 チャイコフスキーの作品は、ともすると、メロディの美しさに惑わされて、その音楽性を見失いがちになる。が、ミドリは、そこをきちんと押さえている。CDを聞くかぎりでは、たいした問題にはならないが、その点、はたして、因襲的な祝祭的雰囲気で処理しようとするアッバードと、解釈の相違にもかかわらず、合意に達したのだろうか。それとも、一悶着あったのだろうか。

 ショスタコーヴィチ(第一番)は難関だ。だいたいが、ショスタコーヴィチの音楽には、裏があって、どこまでが真面目で、どこまでが冗談なのかわからない。それが、ショスタコーヴィチのショスタコーヴィチたるゆえんなのだが、スターリン圧政下という特殊状況のもとに創られたこの協奏曲も、いきなり第一楽章がユダヤ風のねっとりしたノクターンで始まる。かと思うと、第二楽章は、「アーラーラーコラーラ。せーんせーに、いってやろ」というスケルツォ。ベートーヴェンの《月光ソナタ》の三連符をパロディ化した、おおげさなパッサカリアの第三楽章、これもユダヤ旋律風、かと思うと、コラールが現われて神聖な雰囲気になる。そして、五分を超えるカデンツァがある。フィナーレはブルレスケで、スケルツォ同様、テンポがころころと変わる。

 ショスタコーヴィチは、共産党批判を恐れて、一九四八年には完成していたこの曲を机の奥へしまい込み、スターリン死後、一九五五年になってはじめて初演する。こうした、作曲経過も複雑、内容もそれ以上に怪奇な協奏曲を、ミドリはたしかに立派に演奏しているし、これが、現代の演奏スタイルなのかもしれない。が、何かに欠けている。作曲者、ショスタコーヴィチの姿が見えないのだ。これは、ミドリの責任ばかりでなく、アッバードのショスタコーヴィチ解釈にも問題があると思う。

これまで、私は、ほとんどのCD演奏を高く評価してきたが、最後にきて、やはり、まだ、ミドリには未熟だと思わざるを得ない点がある、という結果となった。バルトークが一つの難関だったように、ショスタコーヴィチでも、まだまだ、問題点を抱えている。それは、現代の演奏家すべてが抱えている、ショスタコーヴィチ解釈という、まさに、現代音楽シーンの問題点でもあり、演奏家すべてに与えられた課題でもあった。


総じてまとめると、ミドリは、十九世紀の音楽においては、作曲者の意図を自分の語り口で表現できるが、バルトーク、ショスタコーヴィチという二十世紀の作曲家の語法の表現に、まだ、自分が先に出てしまい、作曲家独特の個性を表現するまでにいたらないようだ。この、私の見解に賛成しない人も多かろう。しかし、私は、現時点において、私自身が得たミドリの演奏を率直に述べたまでであって、一作ごとに成長していくミドリに限り無い期待をこめている。これだけ音楽性の高い資質を持ったミドリが、さらに一層、成長を遂げて行くことに間違いはない。楽しみな、ヴァイオリニストである。

(了)


川鍋 博



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MIDORI(五嶋みどり)公式サイト

gotomidori.com


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1986年,MIDORI(五嶋みどり)14歳のとき、タングルウッド音楽祭でバーンスタイン作曲・指揮によりバイオリン協奏曲セレナーデを 演奏中に、E弦が2回切れたにも関わらず楽団員と楽器を交換して演奏を続けた。この時の様子は、「タングルウッドの奇跡」として、アメリカの小学校の教科書にも掲載された-。


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