トップページ>>バルトークからの三章|[第一章 シュテフィのテーマ]


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私がバルトークについて興味を抱いたのは、もうおよそ二十年前くらいだろうか。最初から「これは手ごわい相手だ」という印象はぬぐえず、そこに感じられる思想内容から自然と文章表現に移っていた。 1995年6月7日、産経新聞夕刊に 「バルトーク没後50年・・・普遍性と民俗性の融合、世界を先取りし達成・・・」 という記事を発表した。

すでにこのときにはバルトーク作品をほとんど繰り返し聞いており、その音楽語法に非常に深い感銘を受けていた。そして、勝手にバルトーク論を書き始め、「新潮新人賞・評論の部」(現在、小林秀雄賞)で主席は逃したが、最終選考まで残った。 これをこのままにしておくには忍びないので、とりあえず「朱夏」という雑誌に連載させてもらった。「朱夏」は日本と中国との関係に関する文化探究誌であるから、およそ畑違いの論考であったわけだ。

が、それでも読者とゴッホの《星月夜》についてずいぶんと往復書簡を交わしたものである。バルトークに関してでなかったのが残念だったが、それでも読者がいるということは一段と励みになるものだということを実感した。 お読みになってもらえばわかるが、行き過ぎとまで思われるような美術に関する記述、 《本質》やら《生命力》などの思想からの考察、電子だの陽子だのという物理学に属する言葉でいい加減うんざりするかもしれない。

別に博識を披露しようという意図ではなく、バルトークという天才作曲家を通して、私たちの生きている世界を少しでも正確に捉えたい、という私の願望がこのような形で結晶となったのである。 当然、納得のいかない記述、論旨の展開もあるでしょう。 そこはあなた自身で考えていただきたい。私が「バルトークを考え」たように・・・・・というのは、あなた自身でお考えになったほうがあなたにとって得であると思うからです。

疑問のあるところは、私にメールを下さっても結構です。ちょうど以前に「ゴッホの《星月夜》について往復書簡を交わした」ように。読者との意見交換は楽しみの一つですし、そこからまた新しい何かが生まれるかもしれません。

では、早速、本文をお読みください。全部で三章構成になっていますので、ゆっくり楽しんで読んでいただければ幸いです。


第一章 シュテフィのテーマ

バルトークは一時、ヴァイオリニストであるシュテフィ・ゲイエルに心を寄せた時期あった。「あなたのテーマです」と手紙に書き添えて、〈シュテフィのテーマ〉まで贈っている。《ヴァイオリン協奏曲第一番(遣作)》の第一楽章は、この美しい〈シュテフィ・ゲイエル〉のテーマでほとんど成立している上、第二楽章は、五つのジグザグ状の下降旋律が主題となっているが、これも〈シュテフィのテーマ〉が旋法上の変容を受けたものだ。

「これは本当の協奏曲ではなく、むしろヴァイオリンとオーケストラの幻想曲なのです」「どちらの楽章も肖像なのです。最初のは彼が愛した乙女の、第二のは彼が驚嘆していたヴァイオリニストの」

  ゲイエルはこうしたコメントを残しながら、バルトークの没後十年目に世を去るのだが、手元にあった総譜はバルトーク生存中には上演されることはなかった。

アランの『音楽家訪間』(岩波文庫)の中の、「楽曲に於いては、〈幻想〉は〈思想〉の前駆体である」という趣旨の言に従えば、ゲイエルは、自身が意味した言葉以上の意味を口走ったことになる。事実、この時点にはバルトークの思想は確立していなかった。

観念が形式化されなければ思想は生まれてこない。ロマン主義という大帝国が、近代精神によってようやく崩壊し始めていたこの頃、若き芸術家の誰もが、自己の作品創造の基盤を捜し求めた。バルトークも例外ではなく模索し続けていた。

人間には時間を操作する力は与えられていないのだが、時として芸術家はあえて公理に逆らう試みをすることがある。特に技法やスタイル行き詰まりを感じたとき、新奇な方を選ぶ進歩派が大部分を占める中で、過去の精神に戻ろうとする例も少なくはない。

冒頭から脱線して申し訳ないが、そのような例を美術史から拾い上げ、論旨を明らかにしたいのでお付き合いをお願いする。では早速、絵画芸術におけるその典型的な例、《ラファエル前派》と総称される画家達を考察してみよう。

産業革命以後、徐々に物質至上主義に傾きかけていた時代に、ジョン・ラスキンが自著『近代絵画論』の中で、〈芸術家の独創〉〈造形上の工夫〉を否定し、ピサのカンポ・サントにある初期ルネッサンスの壁画群から受けた、ラファエロ以前の絵画芸術の持つ〈素朴な誠実さ〉〈美と崇高さ〉を賛嘆したのは、時代の波に流されて自己を失うまいとする自然な感情だった。

こうしたラスキンの思想が、若き芸術家達――ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴェレット・ミレー、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(当時、皆二十歳前後)に共通の信条を与え、ラファエロ以前の「自然で素朴な精神」に帰ることを意味した芸術家集団、〈ラファエル前派〉を結成せしめたのは感情的には納得できる。しかし、この集団が十年も経たぬうちに解散の憂目をみる羽目になったのも、当然と言えば当然であろう。

誰しも、時代精神から抜け出る芸当は出来はしまい。彼等が、「百年前の精神に戻れる」と信じていたとしたらその思いこみが誤りだったのであり、ラスキンの壁画に対する感動に嘘はなかったろうが、ルネッサンス人の精神をそのまま受け継いで、同時代の画家に創作させようとした要求自体に、人間精神の洞察の甘さと無理があった。

従って、〈ラファエル前派〉が、当初の、「ラファエロ以前の自然で素朴な精神」から外れて、より時代性を帯びたものに変質してゆき、果てはウィリアム・モリスの〈装飾芸術〉にまで「身を堕とす」運命をたどったのも、ごく目然な成り行きと言えるだろう。

その道程を最もよく体現しているのがロセッティである。創立当時には《少女の頃の聖母マリア》などの作品により、一応、芸術家が結集した目的に沿ってはいたが、再編成後の《ベアタ・ベアトリクス》になると、〈派〉に属しているはずのロセッティはもうそこにはいない。ダンテの愛人ベアトリーチェに姿を借りた自身の最初の妻、リジーとの間の愛の不条埋な力に悩む一人の孤独な芸術家がいるだけだ。

人一倍自意識が強く、また感受性の鋭い内省家が、他人の愛を素直に受け入れ、育むなど、とうてい不可能なことであるとは自分自身が一番良く知っていた。リジーをどんなに愛していても、過剰な自意識が邪魔をし、リジーは自殺同然の死に方をするが、それがロセッティの心をまた痛めつける。

リジーを忘れさせてくれる女性ジェーン・バーデンが現われても、またぞろ同じ轍を踏むに過ぎない。《プロセルピナ》のざくろを持った女はプロセルピナどころではなく、ジェーン・バーデンその人だ。というよりは、女への愛と、自己愛の板ばさみに苦しむロセッティ自身の投影かも知れぬ。

こうした倫理的基盤の欠如ゆえに悩む精神は、もはや近代、いや現代のそれだ。〈ラファエル前派〉などという理想にあふれた集団を組織しても、結局は自らの手で破壊していく。理想の実現のために自己を律して生きられないような人間に限って、他人を頼みにして、理想を求める集団等を作ってみるものだ。

自己の理想に生きようとする確固とした信念にあふれた人間は、他人なぞあてにしはしない。時代の潮流等にも流されずに、いかに批判されようが、ただ黙々と理想を違成する地道な努力に勤しむに違いない。

「信仰心に溢れ、素朴で自然な生き方」に戻ろうとする決心は、もはやそうした精神の基盤を持たない近代の芸術家には、よほど強固な信念が無い限り、ただ、挫折の原因になるだけだ。ロセッティはその犠牲になったわけである。ロセッティのどの女性のポートレイトも、官能的な美という、女性の普遍的な本質が表現されているのは無理もない。そのことで絵画史上に名を留めていることを知ったら、ロセッティは墓の下でどんな顔をするだろうか。

いきなり絵画論に脱線して面食らわれたかも知れないが、実はここでやっと〈官能性〉という概念で、《プロセルピナ》と〈シュテフィのテーマ〉を結び付けると言う筆者の意図がお分かりになられたかと思う。異性に対する憧景(欲望)、これが官能性の正体だろうが、男と女で成立しているヒトという高等動物を、〈欲望〉抜きにして考えられるだろうか。

こうした疑問自体が近代精神なのであり、その〈憧景〉を下卑たものとして退けることが出来たのが、カトリック的理想主義の世界なのである。

ラファエロ、そしてそれ以前の画家はその中にいたが、すでに異なった時代精神に生きているロセッティには、歴史を朔のぼる力はないがゆえに、〈官能性〉が画布を覆ったに過ぎない。ここにバルトークを解く一つの鍵が見つかる。バルトークの音楽にこの〈官能性〉が感じられるのは決して偶然ではない。娼婦が脇役を勤める《中国の不思議な役人》を聞いてみたまえ。聞き手はエロティックな娼婦の踊りに女を感ぜずにはいられまい。

バルトークも理想と現実の板ばさみになっていたのである。作品五《二つの肖像》第一曲[理想的なもの―One ideal]、第二曲[グロテスクなもの―One grotesque]は、まさにその表れといえないだろうか。しかし、理想は時代の波によって現実にすり替わっていく。

図1.二つの肖像



聴覚芸術である音楽から〈音楽以上のもの〉を汲み取るよりも、視覚芸術である絵画から〈絵画以上のもの〉を抽き出すほうがより易しいことで、〈ラファエル前派〉をバルトークと重ね合わせてみたのが突然の逸脱の理由であったのだが、ご理解いただけただろうか。

さて、時代の転換期に生きた芸術家は、それぞれの進むべき方向を捜し求めてロセッティと同種の苦労をする。二十世紀初頭に青年期を迎えた音楽家違が、皆、晩熟型であるのは、音楽芸術の歴史上最大の転換期に思想形成期を過ごさねばならなかったからである。

彼等に課せられた義務は、まず、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、プラームス、R・シュトラウスと受け継がれた、伝統的な音楽理論――『主題とその展開』を基本とするドイツ正統音楽理論を体得することであり、この重厚に蓄積された伝統的理論を習得するだけで、十代はまたたく間に過ぎ去ってしまう。その上で自己の進むべき道を開拓するのだ。

多くのものが、既に崩壊寸前のロマン主義を習得した上で、さらに何らかの理念を引き出そうとした事実は、ロマン主義の伝統の壁がいかに厚かったかを教えてくれる。バルトークもロマン主議の直接の影響から逃れられなかった。

〈シュテフィのテーマ〉がそれを証明する。この協奏曲自体はバルトーク生前には演奏されなくとも、その第一楽章を殆んど原型のまま用いた《二つの肖像》作品五の第一曲、[理想的なもの]が演奏されている事実は隠せない。

〈ラファエル前派〉の理念である復占主義も一つの方向には違いなかったが、バルトークは自己が確立すべき新音楽を目指して、新奇なものを求める方向を選ぶ。とはいえ、生きた音楽がもつ生命力を感じて民謡の採集、分析はもう始めている。これが後に重要な意味を持つようになるのだが、民衆の中から生まれた民謡にこそ真の音楽が生まれる過程が感じられたがゆえの採集であった。

そこで民謡を採集、分析する研究家として、また〈無調性音楽〉の理論的完成と、それに基づく音楽を作曲する音楽家としての道を歩むのである。

常識的知識は人をあざむくが、少なくとも常識は与えてくれる。バルトークに関する常識的知識の一つは、「他楽器の打楽器的用法」だが、この常識は「ピアノは鍵盤を叩いて音を出す」意昧において正しい。

もう一つの常識的知識は、「ハンガリー民謡の利用」であるが、新ウィーン学派と時期を同じくして〈無調音楽〉を自己のものにしたおよそ十年後の、初心者のための《二つのヴァイオリンのための四十四の練習曲》が、ほとんど素朴といえる民謡旋律の曲集になっているのはなぜだろうか。

その時すでに、晦渋とも取られて不思議ではない二つの《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》、四つの弦楽四重奏曲などの音楽史上比類ない絶対音楽を完成しているのにである。隙間一つない無調音楽埋論を確立していながらも、素朴な民謡旋律にこだわったバルトークに常識的知識は説明を与えない。

バルトークの、楽器の性質に対する本能的な感受性は並々ならぬもので、ヴァイオリンにおいては、その本質である音の持続性、音と音の間の連続性を最大眼に発揮させた。持続性、連続性という性質から旋律性が生まれてくるのだが、その旋律性にヴァイオリンのソロ楽器としての最大の魅力の源がある。

ここで、《四十四のヴァイオリン・デュオ》《ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー》などのヴァイオリンの民謡旋律に、晩年までも固執した理由が表面的には明らかになるのだが、とりわけ、〈シュテフィのテーマ〉はその旋律性の魅力を最も効果的に表現したもので、実に美しい。

〈シュテフィのテーマ〉の前半は、和声の基礎となる、長調の主和音の音、〈ドミソ〉で始まる。ここにすでにバルトークの作曲家としての基本的姿勢が顔を出しているのだが、いまだかつてこのように大それた冒険をあえて試みたのは、モーツァルトを除いて誰一人いなかった。

というのも、ドミソというのはすべてのメロディの中で最も自己完結的で安定であるがゆえに、強烈な印象を聞き手に与えてしまう。へたをすると、その後の展開が主題であるドミソに皆、食われてしまう恐れがあるし、曲が尻つぼみになって壮大なフィナーレがふいになるかも知れない。誰がわざわざそのような危険を冒すだろうか。

モーツァルトは、やはり並の天才ではない。有名な最後の変口長調ピアノ協奏曲の冒頭をドミソで始める。それどころか、最終楽章ではド、ミ、ソ、ド、ソーミドというようにトニックの三音だけで第一主題を作り上げてしまう。

歌曲の《春への憧れ》の冒頭と同一音形であるが、この単純な音素材だけで《春への憧れ》の気分を創り出してしまうのだから、心底、恐れいる。「単純なモチーフとその展開」が神髄であるドイツ音楽の継承者として、晩年のモーツァルトは最も単純なモチーフでこの協奏曲を創る。

さらには、単なるインスピレーションでは到底浮かんではこない対位法を駆使して、〈ドレファミ〉という単純なモチーフを媒介して宇宙にまで到達する《ジュピター》交響曲や、《レクイエム》を完成するのだが(実際はレクイエムは末完に終わった)、こうした、精神が形式の枠を超えた至高の境地に達するには、反省的知識無しには済まなかっただろう。

とはいえ、それまでの膨大な作品には、自筆譜に書き直しの跡がないという理由等から、大脳に次々と浮かんでくるメロディを片瑞から書き写しているモーツァルトの姿がありありとは浮かんでくるのだが・・・・これがいわゆる常識的作曲家像というものか。

しかし、バルトークの場合、作曲に無作為はあり得ない。すべての作品において一つの音すら反省的知識なしに書かれなかったものはない。そうした、バルトークの、感覚情報すらも少しの漏れなく〈知性〉の分析を通じて創造へと再編成する構築性を考えるとき、ドミソと無反省にヴァイ才リンに弾かせた訳では決してないと、わかる。

《ヴァイオリン協奏曲第一番》第二楽章、そして《弦楽四重奏曲第一番》の盲頭の主題がまさか〈シュテフィのテーマ〉の変形であろうとは、楽曲分析された結果を知らされたとしても、単に演奏を聴くだけで、〈シュテフィのテーマ〉と同定出来はしまい。

言うまでもなく、経験をかなり積んだものでもメロディの関連牲が見つからないくらい、もとのモチーフを変形させる自信があるからこそ、バルトークの場合は単純なメロディをモチーフとして用いる、という大それた賭が出来たのだ。

それが、いまだ自分の作曲志向の定まらない若い時期に行われたのだから、自己の能力を冷静に判断出来る鋭利なバルトークの〈知性〉は空恐ろしいほど、強靱な力を持っていたといえる。バルトークを語る場合に、第一に言及しておかなければならないのは、この〈知性〉の力である。

知的な構築力、創造性といった面では、同時代のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンといったいわゆる〈新ウィーン学派〉三羽烏も決して劣るものではない。十二音技法の理論を実際に楽曲演奏の出来る形まて編んでいった〈知性〉は確かに並のものではないかも知れないが、彼等の作品からは楽曲に本可欠な要素の一つが抜けていた。

〈生命力〉である。無調音楽は、〈透明感〉において比類ない反面、生気を失うという大きな欠点を持っていたのだ。

音階というものは、どのようなものであれ、人工的なものである。調性も同様である。また一方、民族特有の歌があり、旋法がある。そして、人間は帰属する民族特有の旋法を成長過程で目己のものとし、さらに、一般的な音楽理論を学習し、いわゆる、長音階、短音階、旋法、調性といったものを身につけ、流行の歌謡に酔うことすら出来るまでになる。

民族特有の音楽又、十九世紀までの西洋音楽を、我々は自然に受入れることが出来るが、それ以降の音楽に抵抗を感しるというか〈生命力〉を感じないのは何故だろうか。

「それ以後の音楽」とは、勿論、ドビュッシーに始まる〈無調性音楽〉を指すのだが、〈調性〉〈協和音〉に対しても人間は〈子守歌〉を間いて学習するのならば、子供に無調音楽ばかりを聞かせて育てたら、それに〈生命感〉を感じるようになるだろうか。

人は、底知れぬ学習力、同化力を持っている。現代人は、ドビュッシー以降の〈無調性音楽〉には知的興味は示しても、モーツァルトの《ジュピター》を聴く時のような生命の高楊感はほとんど感じない。それは私だけであろうか・・・・

調性音楽が、精神が感覚に打ち勝って獲得されるのならば、無調性音楽にも同様の可能性はあってよい。なぜなら、「音楽はすべて人工的なもの」だから調性、無調性を問わず、その体得は「自然に打ち勝つ」点において、根本的条件に差は無いはずであるから。いずれにせよ、調性と人間の感覚との相関関係が明確にされない限り、ここでの考察は表面的に終始せざるを得ない。

だが、実際、バルトークの音楽にはあふれんばかりの〈生命力〉がある。バルトークの音楽が全て〈知性〉により考え抜かれたものでありながら、少しも知的な恣意性を感じさせないどころか、なまの〈生〉を実感させるのに成功していることは驚嘆に価する。

〈生命力〉とは、厳密にいえば、われわれが現実に存在している〈時―空間〉において、その存在を時間継起的、三次死的にあるがままの様態で捕える、つまり、個々に分断された部分としてではなく、活き括きとした〈生〉の全体として捕えることによって、〈生〉本来の持つ躍動感を与え得る力である。

そうした〈生命力〉に一体、どのようにしてバルトークが気がつき、いかにして自己の音楽への導入に成功したのか。その解明が、この論考の主眼の一つでもある。

バルトークの〈知性〉は、知性らしく、音楽に対しても同様に、分析的、分離的に働く。民謡は、あくまで、採集し、分析、分類、編曲する対象と見なす一方、作曲においては、新しい音楽理論に基づく〈無調性〉の絶対音楽の創造を目指した。

しかし、民謡を解体分析する作業をしているうちに、音楽が人の心の裡から生成していく真の過程を発見する。自らの心の裡にも萌芽としてあったのに気付かぬ大発見であった。そして、今度は完全に意識上のこととして、自己の音楽創造にもその生成過程を導入することにより、民族性と普遍性という相反する二重性を克服し、作品に〈生命力〉を付与する糸口をつかんだのだ。

これが、バルトークにとっての民謡の持つ本来の意味だったのであり、この発見のおかげで真の創造による人類の遺産を次々と生み出す大遣業が達成されたのである。バルトークの強力な〈知性〉は、ローレンツ流に「刷り込まれた」民族的伝統までも知的な分析の対象とし、自己の裡に再構成しなおして採り入れるという並外れた同化力を持っていたのだ。

では、実際にはどのようにして〈生命力〉を作品に賦与したのか。

民謡の中でもジプシーのメロディーは、《チゴイネルワイゼン》などに聞かれるように、テンポ・ルバートで自由に歌う部分(ラスと呼ばれる)と、イン・テンボで急速な部分(フリス)から成る。しかもフリスのテンボは一定でなく、アッチェレランドしてさらに速められ、一気に曲をフィナーレへもっていく傾向がある。

バルトークの《ヴァイオリン協奏曲第一番》の〈シュテフィのテーマ〉に続く第二楽章において、この〈ラス―フリス〉繰返し、曲を盛上げていく手法が聞かれるのは、この時点においてすでに〈生命力〉に関する考察が、ある程度なされてていた証拠になる。

二曲の《ヴァイオリンとピアノためのラプソディ》では、第一楽章の副題に〈ラス〉第二楽章に〈フリス〉と、そのままに付いていて、ジプシー音楽の形式通りに民謡から得た旋律を歌うのだが、こうして一楽章ずつに〈ラス〉〈フリス〉を当てはめるのはこの曲が最初で最後であり、後には、はるかに短い単位で〈ラス―フリス〉を行なうようになる。一楽章内で、テンポ変化を加えて〈ラス―フリス〉を何度も繰返すバルトーク独特の形式はここに由来する。

図2.ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ



そうした形式を何度繰返しても、それが少しも陳腐に、また恣意的に聞こえないのは、バルトークの並外れた時間感覚、テンポ感覚によるものであることは明白だ。その時間の持続感覚が〈知性〉とあいまって、〈シュテフィのテーマ〉などの持続的旋律を創る。

その時の旋律の息の長さは、まるで永遠に続くのでばないかと思われるくらいで、〈調性音楽〉〈無調性音楽〉〈教会旋法〉〈教会旋法の変形〉〈全音音階〉〈半音音階〉などといったあらゆる旋律形態が現れては消える。

時にはそれが民俗音楽的な響きを与えるが、民謡の旋律をそのまま自己の音楽に用いることは決してしない。数多くの作曲家が民謡を主題にした〈変奏曲〉を書いているが、バルトークにとっての民俗音楽は音楽創造の契機と過程、そして何よりも音楽の持つ〈生命力〉を知る格好の資料であったからだ。

民謡旋律をそのままの形で利用しても、彼の創作には何の役にも立たないことを充分過ぎるほど心得ていたのが、バルトークが民謡旋律を利用しなかった理由である。《ルーマニア民俗舞曲》などのピアノ曲があるが、これらは決して〈民俗舞曲〉そのものではなく、バルトークの〈知性〉を通じてその活き活きとした生成過程を抽き出された純粋な結晶なのである。

こうしてバルトークは、民謡の持つ形式の中に、その形式が生まれた必然性、つまり、〈生命力〉を見出だし、持ち前の〈知性〉でもとの素朴な形から自己の音楽に適合するように変形させ、徐々に〈本質〉へと肉薄していったのである。その〈生命力〉を表現するのに最も適切な楽器が、時間持続的な旋律を提供するヴァイオリン族の楽器であった。

メロディは、純粋持続的芸術である音楽の中でも、最も持続的な要素である。メロディに対する本能的、いや動物的と言ってさえよいくらい比類なく鋭い〈勘〉を持っていたバルトークが、そのことを見逃すはずはなかった。

二曲の、《ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ》(後には伴奏をオーケストラに、ソロ楽器をチェロに替えた二種類のヴァージョンに編曲する)、最晩年の最高傑作《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》《二つのヴァイオリンのための四十四の重奏曲》、二曲の《ヴァイオリン協奏曲》、遣作となった《ヴィオラ協奏曲》――これらが、民謡編曲を除いた、ソロ弦楽器のための作品のすべてである。

ヴァイオリンという無限持続楽器には、無限に持続する旋律を与えるだけに止まらず、旋律を分断する打楽器的用法も数々の種類、編み出している。後に詳しく考察する、不連続的な瞬間、〈間〉という時間的観念を充分心得ていたからだ。さらには、音程をいくらでも分割出来るこの楽器には四分音(半音の半分)さえ与えて、スラーはより滑らかに、トレモロはより繊細に震える音が出るよう要求する。

こうした楽器の特性を活かして作られた《ヴァイオリン協奏曲第二番》は、バルトークの作品の中でも最も旋律的で変化に富む、愉悦感あふれる作品となった。古今のヴァイオリン協奏曲の中でも、これほど難技巧を要求されながら、それは知的に練られたものだろうが、それでいて緩徐楽章は〈シュテフィのテーマ〉より一層官能的な美しさを持ち、終楽章の〈ラス―フリス〉の〈生命力〉に満ちあふれた曲はない。ここでは、二重性が、多重性にも拡がっていて、しかも、見事な統一を示す。

この外向的なコンチェルトと対照的なのが、未完に終わった最後の名作の一つ《ヴィオラ協奏曲》である。この曲における内省的な性格は、バルトークの持つ性質の一面を表わしたものだが、加えて死を前にした作曲家の静穏な気分と、天国的な崇高さがある。〈協奏曲〉というジャンルで、これほどの精神性を感じさせる作品は、他に類を見ないだろう。〈白鳥の歌〉にふさわしい。

がこの作品には何かが失われている感がする。健康の悪化が創作に影響を与えたのだろうか・・・・・あくまでも憶測に過ぎないが・・・・

このような経緯を経て、本来は旋律楽器であるヴァイオリンに音楽の要素(ハーモニーは制限はあるが重音で出せる)以上のものを加えた結果、至高の境地を実現した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》が、死の一年前の一九四四年に誕生する。



図3.無伴奏ヴァイオリン・ソナタ



この曲の第一楽章には[シャコンヌのテンポで]、第二楽章には[フーガ]という副題が付けられてはいるが、〈シャコンヌ〉も〈フーガ〉も、もはや聞きての耳には伝わって来ない。バッハへの傾倒、つまり古典的様式の精神は残っているものの、形式としての外的形態には、もはやほとんどその痕跡程度としてしか見当たらない。分析的に発展させると、ここまで解体されてしまうのか、という驚きだけが聞き手を圧倒する。

ちょうど、物質を構成要素に還元していくと、陽子、電子等という素粒子になって、もはやもとの形態に再構成出きなくなるところまで、バルトークは進んでしまったのだ。メロディは、素粒子になるまで粉砕され、普通ならそこで再び組み直されて、新しいモチーフが最小限、旋律と判定出来る単位で生じて来るのだが、このソナタではそれすら行なわれない。よほど耳を澄ましていないと、旋律に成長する分子は聞こえて来ないだろう。

このソナタを聴く時、我々は旋律が誕生するちょうどその現場に居合せるのだ。「旋律が持続の純粋形態である」という命題すらが、ここでは成立するかしないかの、ギリギリの線上にある。音楽が純粋持続の芸術であるがゆえに音楽を憧憬して止まなかったサンボリストの詩人達でさえ音楽に対する考えを改めかねない危険な状態なのだ。

バルトークの緻密な精神には、〈持続〉と感じられて何の不思議もないのかも知れないが、凡人の耳にはこのソナタを構成している旋律らしきものの断片の結合は、全く混沌としていて、何の脈絡もなく聞こえる。だが、なぜか、とてつもない吸引力で人を吸い込み、金縛りにあわせるような、何かがこの作品にはある。

おそらく、生命の誕生する原始の状態、精神の成長の最も活発な時代を想起させるのではないか。開き手の精神が、精神の故郷に呼び戻されているのであろうか、聞き手の精神は絶え間なく動揺させられて、緊張を解く一刻の猶予すら与えられない。いわぱ、世界創造のど真中にいるのだ。

分析の盲点は、生命の真の階層は乗法的であることを加法的であると誤解させる点である。炭素原子は酸素原子と結合して二酸化炭素となり、窒素原了は水素原子と結合してアンモニアになる。二酸化炭素とアンモニア、水などからアミノ酸や、核酸が出来、それらが重合して蛋白質やDNAが生成する。蛋白質とDNAからでも、最も単純な生命体、ウィルスが誕生する。が、ウィルス全体として見た場合、もはや炭素原子などの成分の性質は持ち合わせていないということだ。

加法は混合に過ぎないが、乗法は要素を階層的に〈有機的結合〉させることにより、全く新奇なものを生じさせるという、生命発生に必須な過程を含んでいる。バルトークは、いわゆる科学的思考に含まれていて、一見正当に見える誤謬に陥らなかった。〈有機的結合〉に気付き、進化を可能にした〈時間〉の役割を、持続的旋律に託した。

ヴァイオリンの持続旋律は、その観念の、実は、象徴化なのである。ベルクソンは『時間と自由』の中において、従来の思想家の犯した時間を捕える上での誤謬(本来は空間に属する観念――延長、同時性、量などを、時間に属する観念――持続、継起、質、といったものに混在させた)を指摘したが、ベルクソン自身もその誤謬を犯すことになった。

ベルクソンの純粋さを徹底させる近代的分析法は、確かに、個々の事物の全体から切り離された、部分としての性質を明らかにする点では都合がよいだろうが、現実には不可分のものを分離した記述は、その事物全体の中での真の様相を与えるとは限らない。

ベルクソンの〈純枠持続〉は、あくまで想定されたものに過ぎない。〈純粋時間〉が、量的に計測不可能ならば、我々が子供の時の記憶と、成長してからの記憶を分けて考えられるのはなぜなのか。

そこで、部分に切り離さず全体として捉えた時間を〈実存時間〉、空間を〈実存空間〉と呼ぶことにする。また、〈前後〉といった、時間にも空間にも当てはまる弁別方法を導入したい。

こうした弁別方法は、観念の分離が不完全になるゆえ、ベルクソンの指摘する誤謬の因になるだろうが、こうでもしない限り、「先行した音と続行した音の間に何の間係も無い」という結論に達せざるを得ないベルクソンの規定によって、メロディそのものが成立しなくなってしまうからだ。

時間は、量で計測する時、確かにベルクソンのいう通り、空間的な位置関係に置き換えて考えられている。時間を純粋に計量する絶対的尺度はないのだ。ただ〈前後〉という相対的な関係によってのみ、識別が可能になるのであり、逆に〈前後〉という相対関係によってしか識別されないものが〈時間〉の本質なのである。

バルトークの知性は並はずれていたが、〈生〉そのものを直観的に捕える異常ともいえるほどの能力も備わっていた。これがバルトークの音楽美学の礎台として独自の作品を産み出す。

バルトークがヴァイオリンに与えた持続旋律は、初期のころには〈シュテフィのテーマ〉のように、いわゆる、旋律で歌うものであった。これには民謡風旋律も含まれる。が一方、何かに追われるような、また何かを追いかけるような速いテンポで連繋した音同士の間の音程差が小さい、より持続的な旋律があった。

この後者のものは、〈ラス―フリス〉ではフリスに属するもので、実はバルトークの音楽の〈生命力〉の重要な鍵になっているのである。これこそ、何者をも示さず、ただ淡々と〈実存空間〉の中で時を費やしていく〈前後〉という相対的な関係のみによって代弁される、〈時間〉そのものを象徴する正体なのだ。バルトークの〈生命力〉は実は、音楽によって象徴されているのである。

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参考

Yahoo!百科事典(バルトーク総論)

※画像はクリックするとすべて大きくなります※


1995年6月7日付け
産経新聞

1995年6月7日付け「産経新聞」,「バルトーク没後50年」普遍性と民俗性の融合,世界を先取りし達成…なお残る発見の余地,踏み込んだ研究と再評価必要

朱夏創刊号
1991年1月20日発行

朱夏創刊号,1991年1月20日発行

1. ヴァイオリン協奏曲第1番 遺作
2. ヴァイオリン協奏曲第2番


アラン
『音楽家訪間』(岩波文庫)

アランの『音楽家訪間』(岩波文庫)--ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ

ロセッティ
《ベアタ・ベアトリクス》

バルコニーの手すりに置かれた日時計は恋人ベアトリーチェの死の日時を示し、彼女はまさに地上から彼岸へ移ろうとしている。その顔はロセッティの妻シッダルの顔である。遠景にはダンテがベアトリーチェに初めて会った思い出の場所フィレンツェのポンテ・ベッキョと、悲しみに沈んで町をさすらうダンテ、そして彼が巡り合った"愛"が赤い服をつけた象徴的な人物として描かれている。ダンテの姿はまロセッティ自身の姿でもあろう。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《ベアタ・ベアトリクス》

ロセッティ
《プロセルピナ》

プロセルピナ(ペルセフォネ)はギリシア神話の女神で、1年の半分を冥界で過ごし、残りの半分を春の使者となって地上で暮らすところから、収穫を象徴する豊穣の女神とされている。この作品のモデルはロセッティが想いを寄せ続けたモリス婦人ジェーンで、彼はモリスを加えた3人の関係を神話にもなぞらえ、ジェーンに抱いた願望を描いた。彼自身でも気に入っている作品の一つで、他に同じ構想の作品が7点残っている。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《プロセルピナ》

1. 中国の不思議な役人op.19 Sz.73(1幕のパントマイム)
2. 弦楽器,打楽器とチェレスタのための音楽Sz.106


Miraculous Mandarin
Two Portraits
Two Pictures


Sonata for Solo Violin
(無伴奏ヴァイオリン・ソナタ)
44 Duos for Two Violins


Violin Sonatas
Andante
Rhapsody 1


六つの弦楽四重奏曲


1. Concerto For Violin And Orchestra
No. 2: I. Allegro non troppo
2. Concerto For Violin And Orchestra
No. 2: II. Andante tranquillo
3. Concerto For Violin And Orchestra
No. 2: III. Allegro molto
4. Rhapsody For Violin And Orchestra
No.1: I. Lassu: Moderato
5. Rhapsody For Violin And Orchestra
No.1: II. Friss: Allegretto moderato
6. I. Lassu: Moderato
7. II. Friss: Allegretto moderato






















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1. 舞踏組曲Sz.77
2. ルーマニア民俗舞曲Sz.56
3. 民謡による3つのロンドSz.84
4. 15のハンガリア農民の歌Sz.71


1. ヴィオラ協奏曲Sz.120(遺作)(シェルイ版)
2. 弦楽器,打楽器とチェレスタのための音楽Sz.106