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第二章 ミクロコスモス

バルトークにとって、ピアノは自分自身の延長であった。自身で演奏できる楽器のための作品を創るということは、創作上、有利であると同時に欠点をも爆け出す。有利な点とは、自己の内面的な無形の心を〈ピアノ譜〉という外的形態として、また、作曲意図を、自己の演奏そのものを通じて、自身では演奏できない楽器の場合より、 はるかにによく表現できることである。

欠点とは、演奏活動という外的制約のために、精神性が肉体性には優先できない点だ。〈知的〉にいくら優れたバルトークでも、指は十本しかなく、十本の指だけでは、〈微少な宇宙〉しか表現できないかもしれない。一方、精神は宇宙大にも拡大する。その拡大した宇宙を表現するのは演奏技術の問題なるので、いくらバルトークと言えどそれに任せるしかない。

バルトークがピアノで表現したかったことは、初期(一九一一年)の小品《アレグロ・バルバロ》に、唯一の点――それは後述するが――その点を除いて大体表現されている。

古今の作曲家の中でも、バルトークは最も楽器の持つ表現力を心得た人だったから、持続表現のできるヴァイオリンには〈シュテフィのテーマ〉を与えた。ピアノはそれ自体〈宇宙〉とも言うべき完結した楽器であるから、真の意味での持続と連続を除いて、音楽の全てを表現できる。では、バルトークがピアノに託した課題は何だったのか。

バルトークはピアノを打楽器のように用いた」とは通俗的に、また、概括的な音楽の教科書で言われていることだが、ピアノは打鍵楽器であるから、鍵盤に叩きつけるように弾けば打楽器的効果が出せ、そうした印象を与えるの当然であって、ことさら言いたてる程のことではない。

バルトークの音楽の中で、ピアノが打楽器の代用として使用された箇所、または打楽器的効果を出すためだけに用いられた箇所は、一つとしてない。とすれば、「ピアノの打楽器的使用」という実に暖昧この上ない表現は、努めて避けるべきだ。

かりにバルトークが本当にそう考えていたのなら《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》ば、〈二台のビアノのためのソナタ〉で充分だったはずではないか。ピアノに、それこそ、打楽器の代わりをさせれば済むことだ。

「民謡旋律の利用」というのは、数学的に言えば、〈十分条件〉ではあっても、〈必要条件〉は満たしていない。バルトークの音楽が、すべて民謡からのヒントで成立しているわけではないからだ。民謡からは「音楽が生成される過程」という、音楽創造上の根本原理を教えられた、とはすでに述べた。 〈無調音階〉〈教会旋法〉〈半音音階〉〈調性音階〉等を組み合わせて独自の旋法を作り、その人工的な旋法によって音楽を組み立てても、その音楽が決して〈生命力〉を失わなかったのは、ひとえに「民謡を分析研究した結果だ」とは言えるだろう。

ピアノ作品「戸外にて」

図4.戸外にて(Im Freien)

〈チェイス:The Chase〉という言葉は、一九ニ六年に創られたピアノ作品《戸外にて Im Freien》の第五曲に付けられた表題である。この何ものかを追跡していくような旋律の流れは、バルトークの音楽において、自身の精神の深層領域に属する根本的な〈希求〉を現実に抽き出す、無意識的な自己表現のように思える。

それほど、深いものであったからこそ、自身の手の延長であるピアノ音楽に最も瑞的に現れたのであり、他のジャンルの音楽においても、この〈チェイス〉は常にその作品の最も生き生きとした部分を形作るのである。

《戸外にて》の第四曲には《アレグロ・バルバロ》に表現された、もう一つのバルトークの側面を含んだ〈夜の音楽:The Night's Music〉という表題が付けられている。バルトークの音楽の生き生きとしたアレグロ楽章の間の緩徐楽章に顔を出す、この〈夜の音楽〉は〈夜〉の音楽であって、決して〈無〉の音楽ではない。

それは、不気味な静けさと〈間〉を伴う音楽であるが、ウェーベルンの〈間〉に代表される、自己を見失いそうで空恐ろしいものではない。生命は活動しているのであるが、極端な静寂さの中に感じ取れるだけで、聴覚より上部の大脳を動かそうとする。その意味において、バルトークの音楽は音刺激のないところでも常に生命感を保持している。いわば〈生命力〉の〈動〉の部分が〈チェイス〉であり〈静〉の部分が〈夜の音楽〉なのだ。

この〈夜の音楽〉は、一般的に見逃されがちなのだが、〈チェイス〉の圧倒的な〈生命力〉の印象が余りにも強すぎるので、記憶に残らなくとも責めはできまい。そのうえ〈夜の音楽〉が、楽曲の中で明確な形を現してくるのは、バルトーク最盛期の一九一二六年頃あたりからであり、その後、三つのピアノ協奏曲の緩徐楽章に最も顕著に現れる。

〈静けさ〉の中に素朴な旋律がシングル・トーンで弾かれるが、これはもう完全にコラール旋律だ。「バルトークはバッハの影響を受けている」、と言われて合点がいかなかった人でも、この部分を聞けば、必ず納得するだろう。しかも、最も祝祭的気分の強い第二協奏曲において、〈夜の音楽〉の占める部分の時間と〈チェイス〉の部分を占める時間比率はほとんど同じであり、バルトークがいかに〈夜の音楽〉に比重をおいていたかがうかがえる。

この〈厳粛〉とも呼べる静けさは、バルトークのあまり知られていない一側面である。〈神聖〉という概念は、どちらかというと〈肉感的〉〈官能的〉〈運動性〉が表面を覆っているバルトークの音楽において、めったに感じられない性質である。

が、精神の奥に宿しているこの特性も、ピアノという自己の延長である楽器を対象にした曲を創るとき、自然にその姿を現してしまう。そして、経験を重ねれば重ねるほど、音楽全体に影を落としていく。そのため、最晩年の《第三ピアノ協奏曲》では、以前とはうって変わった円熟の境地に達し、さらに《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》《ヴィオラ協奏曲》という不滅の至高芸術作品を生み出すのである。

こうしたことは〈夜の音楽〉を考えにいれなければ、ほとんど解釈本可能なことだろう。常識的知識の危険な一面が如実に現れた例で、このようにして固定観念は人に、誤っているか、あるいは、部分的な側面を与えてゆき、人は無反省にそれを受け入れてしまうのである。

では〈チェイス〉では、何を追いかけているのだろう。バルトークは、いったい、何を一生追い続けていたのか。一度は否定した〈神〉だったのか。〈運動〉という特間的ではあるが空間的なものなのか、それとも純粋持続である〈時間〉そのものであったのか。

具体的な絵画作品と、音楽作品を無反省に結びつけることは、いつの世でも危険なことだ。両者、双方の〈本質〉を見失うからである。しかし、あえてここでそれを行なうとしても、〈本質〉についての観念連合をするつもりであるから、言い替えると、両芸術作品の創造される契機と過程における相似性を比較するのであるから、両者の〈本質〉を失ったり、損ねたりする可能性は少ないはずだ。

それどころか、バルトークという人間の〈本質〉をより明確にできるとともに、比較された画家の〈本質〉に付いても、通常とは異なった観点からの、ひと味違った興味ある知見を得られる可能性さえある。

さて、いままで述べてきたバルトーク音楽の諸性質から、どのような画家、絵画作品が思い浮かぶだろうか。バーバリック、プリミティヴ、舞踏性を第一に考えれば、間違いなくフォーヴィズムの代表的存在である、アンリ・マティスが浮かぶ。作品としては《春のロンド》。しかし、外面的には最も相似性は強いかも知れないが、本質についての観念連合となると、バルトーク音楽の〈チェイス〉や〈夜の音楽〉はどうなるのか。

〈本質〉について考えを進めると、ゴッホの、〈渦巻〉の見られる作品に突き当たる。《星月夜》とか《糸杉》がそれだ。構図は大体似ていて、画面中央下に小さな教会、左側に大きな杉の木が上から下まで陣取り、右上に月が描かれている。

画面の上、三分のニはプルシアン・ブルーの空に覆われ、空には星が散りばめられたり、例の〈渦巻〉がいくつも描かれているが、〈渦巻〉の中には、植物の一種のゼンマイのような茎を付けた形をしたものや、同心円状、螺旋状のものもある。

大胆な構図、黒くはっきりと縁取りされ、原色の持つ強い色香で自己の存在を主張する構成物――レモン・イエロウの月、プルシアン・ブルーの空、モス・グリーンの草が生い茂げった平原、赤茶色の山肌、真っ自な教会正面の壁、そして意味不明の〈渦巻〉の群。

強烈な原色の色彩は充分に打楽器的衝撃を与える。デッサンは、歪みはあるが、対象の本質のみを与える〈単純さ〉(と言ってよければ)を持ち、謎の〈渦巻〉は〈チェイス〉を想起させる。〈夜の音楽〉は、これら一連の作品にも感じられるが、ゴッホが自殺を遂げた《烏のいる麦畑》や《嵐の前の麦畑》に、より相似性が感じられる。

〈本質〉を考えていくと、ゴッホという人物自体に、バルトークの精神との相似性が感じられるのだが、あくまで〈相似性〉であって、〈相似〉ではないことを付言しておく。

ゴッホの〈渦巻〉は誰にとっても謎らしく、特に《星月夜》に関しては多数の解釈が試みられている。聖書を引用して解釈する説、天文学的にそうした風景が実景であるとする科学的方怯による説、確かに実景が原図にはなっているが、そこに作者の記憶によるモチーフが加筆されているとする説などがあるが、最後のものが最も妥当な説だろう。

だが、当の〈渦巻〉に関する記述は、なかなか見あたらない。〈渦巻〉が描かれている〈絵〉は解説するのだが、〈渦巻〉自体については「ゴッホは精神病院に送られたくらいだから狂気の一種の現れだろう」程度の記述が見つかるのが関の山だ。

言うまでもなくゴッホ自身、この〈渦巻〉について膨大な書簡の中でも触れていないから、ゴッホの性格分析、精神分析、生き方、書簡の中の言葉のはし等から想像するしかあるまい。暖味な憶測に頼るよりも、まず、ゴッホ自身の書簡の中の言葉から探りを入れてみよう――

「それでもなお、ぼくは、やはり、なんというか、宗教がどうしても必要だと感じる。そのとき、ぼくは夜、外に星を描きに出る」

これが《星月夜》に具体的に言及した唯一の言葉である。

この言葉の真実味には、ゴッホ自身の生き方と直接に関連していることから、信頼性を認めてもよい。ゴッホが弟テオに宛てた数多くの書簡に表明されている目常的な記述や、波乱に富んだ一生を考えることなしに、作品の真の理解、共感といった、精神的な事柄に属するものを捉えることはできないだろう。

精神が外的形式を上回っている芸術家に対して、その精神に肉薄していくことが、是非とも必要なのである。だが、その芸術家自身の作品以上に、〈本質〉を物語る証拠はあろうか。そのためにも鋭く冷静な批評眼は養っておかねばならない。 ゴッホは生まれついての宗教者であった。キリスト教の伝道師になるつもりで、実際、ベルギーのボリナージュ炭坑地帯で伝道活動を行うのだが、あまりの過激ぶりに、委員会からの許可が下りず、その後、伝道師としてのゴッホの姿は消える。

ゴッホにとっての宗教は、あくまでも個人の内面に関する本質的なものであったのだが、それが外面的な儀式を重んじる教会の意向と一致しなくとも当然であった。この宗教心は、ゴッホの精神の奥に身を穏し、画家としてのゴッホで、三十七歳の生涯を終える。

しかし、そうした強い信仰心が作品に影響を与えないわけはない。そこから《星月夜》を聖書の記述によって解釈しようとするものも出てくる。とはいえ、宗教心は絵のテーマには現れない。

ここで、象徴派の詩人でもあり、批評家でもあったG・アルベール・オーリエのゴッホ論から引用してみよう――

「現実に対するファン・ゴッホの愛情と敬意について、単にそれを指摘するだけでは、豊かで複雑な彼の絵画を説明し、特微づけるには不十分だろう」

「ファン・ゴッホは、彼の理想に対して、どっしりとした触知できるような衣を、感覚的で物質的な形を与えたいと常に願っている象徴主義者だ」

オーリエは、ゴッホを理解した数少ない同時代人であり、その批評に対しゴッホ自身は

「とても驚いた。私はあんなふうに描いてはいない。あそこには、むしろ私の絵の理想の姿が書かれている」

と、テオへの手紙に記したそうだ。

ゴッホは自己分析家ではない。従って、自己の作品の価値について考えもしない。オーリエの批評眼は鋭く、ゴッホの〈本質〉を突いている。ゴッホが象徴主義者であるかどうかは、ゴッホ自身が認めたものではないし、少なくとも〈主義者〉でないことば確かであるが、その作品が象徴的であることも否定できない事実だ。

《星月夜》の〈渦巻〉ば、単に「雲である」と解釈している評者も少なくないが、ゴッホの精神の奥に秘められたものの表出と見るのが、画家の理解につながる唯一の道と思われる。無意識的にゴッホは何かを〈渦巻〉で象徴している。それは、いくら追いかけても逃げていく〈真理〉、宗教的な至高の境地と考えられなくもない。

つまり、〈チェイス〉なのである。ゴッホは信仰者としての当然の目標である〈神〉を〈チェイス〉した。バルトークは、知的な音楽家として〈音楽の本質〉を〈チェイス〉し、つまるところ象徴表現に達した。ここに〈本質〉の追求と〈象徴〉に関する、本質的な相似性が感じられたからこそ、長々とゴッホのことについて述べてきたのである。

ゴッホも、その信仰心を、ルオーがしたようにキリスト像を描くことで外に発散していたら、狂気に駆られて、《烏のいる麦畑》でピストル自殺なぞしなくてすんだかも知れない。だが、運命とは不思議なもので、三十七歳で命を断つ晩年の十年の間に、ゴッホは自身が一生かけてすべき仕事をおそらくすベて終えて逝き、絵画の歴史の流れを大きく変えた。

そのゴッホが、若い時分にはドラクロワを神様のように思っていたというのは、単なる偶然の一致であろうか。というのは、ドラクロワほど絵画に音楽的手法を採り入れた画家は他に例を見ないからだ。バルトークの音楽とゴッホの絵に相似性が感しられるのも、ゴッホの絵のどこかにドラクロワの影響が残っているからなのだろう。

「絵画は空間的芸術、音楽は時間的芸術」というとき、私たちはこの〈的〉を充分に考慮に入れなければならない。「時間のない空間」、「空間のない時間」といったものが考えられないからだ。換言すれば、〈空間〉と〈時間〉は不可分なのであり、対象が感覚的にどちらの印象を強く感じさせるかによって、〈的〉が付けられるに過ぎないのである。このことは忘れられがちなので、常に充分に気を配っておかねばならない。

そうした意味において、〈チェイス〉のバルトークは〈時間的〉であり、〈夜の音楽〉のバルトークは〈空間的〉である。〈夜の音楽〉の空間性をしばらく考えてみよう。そこには充分な〈間〉がある。〈間〉という観念自体、西欧的思考によると空間的な色彩が濃いいっぽう、「邦楽において最も童要な要素は〈間〉である」と言われるように、日本人の間では〈間〉は、時間的にも劣らず意識されてきた。

が、西洋音楽史をひもとくとき、十九世紀までの音楽は、空間的にも時間的にも〈間〉をほとんど考慮に入れていない印象を受ける。一般的に言えば、二十世紀の音楽、特にシェーンベルク以降の音楽の革新性はなんと言ってもまず調性の破壊だろう。が、考え方によっては「時間的空間的な〈間〉を考え始めた」変化の方がより根本的ではないだろうか。

ベルクやウェーベルンの音楽の一大特微は、特にこの〈間〉の効果的な使用であり、とりわけウェーベルンの独特の緊張感は〈間〉によって生まれてくるのである。そのことが極度の緊張感を必要とするために、また、常に〈間〉によって〈音楽的流動〉を切断されるために、時間的に大曲をつくることが出来ない、という不都合をもたらしたことは疑えない事実であり、その影響はその後の音楽創造に克服すべき課題を残していく。

バルトークの場合は、〈チェイス〉という持続的な部分のアンチ・テーゼとして〈夜の音楽〉が置かれるのであるから、新ウィーン学派が露呈した限界に、音楽が押えつけられる心配はない。

《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》は、最もこの〈間〉を有効に利用した好例を与える。この曲は、緩徐楽章のみに〈夜の音楽〉があるのではなく、〈夜の音楽〉の本質である〈間〉が全楽章にわたって効果的に使用されているのだ。〈持続〉という時間的概念に最も適合するものと、〈間〉という空間的概念により多く帰せられるものとが、作曲者の創造行為のうちに、みごとな〈生命力〉を持って結合させられている。

バルトークは、持ち前の感覚のよさで各楽器に独自の魅力を抽き出させる。ヴァイオリンにおいては、その音の上下の連続性と、持続性という、どちらかというと時間的推移に関係が深い特性を最大限度に発揮出来るような作品を創造した。

しかし一方では、ピアノという半音階の不連続な集合体には、その特性を充分に活かした曲を創作した。音の上下においては不運続であるが、両手を用いて、同特に十(またはそれ以上)の音を出すことが可能であるという特性だ。つまり、和声を提示しながら旋律を弾くことが出来ること、また、二重、三重の旋律を同時に奏でる(カノン)ことも可能であるという、鍵盤楽器の持つ長所を、バルトークは見逃すはずはなかった。

〈チェイス〉は時間的な性質に、より親近性を示すもので、ヴァイオリン音楽では、持続的旋律として用いられていた。が、〈夜の音楽〉から導き出される〈間〉は、純粋持続としての時間概念よりも、〈空間的〉な概念に、より親近性を持っていた。

打鍵した後は滅衰し、最後は消滅するピアノの音に、〈間〉はごく自然に感ぜられる。鍵盤を弾く(叩く)ことで、「打楽器的用法を持ち込んだ」というのは、物理的には正しいが、楽器演奏の方法上の問題を混同している。通俗的な言い方は、一回的な、または、断続的な単に衝撃的な強い打鍵を〈打楽器的〉と言ったに過ぎないのだから、それは明らかに演奏技術に関する無反省な言語表現と考えるのが適当と思われる。

打鍵後すぐに滅衰するオスティナート奏法(同音の断続的使用)が効果的なピアノには、〈チェイス〉の表現が最適であり、持続音を切断した後の〈間〉は、人間の大脳を単なる聴覚刺激から〈空間〉へと拡張する。

その点において、ピアノを持続楽器同様に扱い、感覚を線的、面的、つまり〈二次元〉に固定する古典派、ロマン派音楽から、三次元空間を感じさせる音楽へと発展させたことは、バルトークの最大業績の一つであった。

二次元に閉じ込められた音楽を三次元に解放したというだけでは充分ではない。それだけなら、ドビュッシーにその萌芽が見られ、新ウィーン学派のしたことは、みな、それに該当する。「標題音楽」もその創造精神において違いがあるとは言え、〈空間的〉な音楽を目指したものに含まれる。

バルトークの偉大な点は、三次元という、いまだかつて経験したことのないところへ、音そのものを送り出しておいて、しかも生かし続けたことである。他のもの達は、皆、可能性だけは拡大してやりながら、その中で自分の子供である〈音〉を見殺しにしてしまった。

バルトークが〈生命力〉を失わずに三次元の音楽を創り出すことが出来たのは、第一に青年峙代に民謡研究から抽出した、音楽生成の過程を常に考えつつ音楽作りをする姿勢に帰することが出来る。民謡研究がバルトークの音楽創造から切り離せないことは、いくら繰り返しても充分とはいえないほど、重要であることはジゼール・ブルレ女史(『音楽創造の美学』音楽之友社)の言を待たない。

第二に、ピアノがバルトークの手の延長であったことと無縁ではない。反省的知性は、身体の運動を常に真理により近づけるよう考え続けるからだ。この場合の真理とは

「単純な手の運動による単旋律に、和声を加え、リズムを加味することによって生ずる音楽は、純粋経験的、〈時―空間〉に、小宇宙を形成出来る」―――

という事実である。

バルトークのピアノ音楽の裏大成である《ミクロコスモス》は、一曲目、八長調の、「ドレミーファミレーミファソファミレド」という単純な旋律で始められる。息子のぺ−ター用のピアノ練習曲集として第一巻と、第二巻は作られたが、その後、民謡旋律、教会施法、技巧的な小品や、内容の濃いピアノ作品も含めて、全六巻、一五三曲の一大総合ピアノ曲集と成った。

それはまさに、素粒子から始まって宇宙が形成される過程に似ている。バルトークが《ミクロ・コスモス》(小字宙)と名付けたのは実に適切であった。一分か二分足らずの小品群一五三曲の中に、バルトークのすべてが含まれている、時間的であると同時に、空間的でもあるこの作品の中に、《ソナタ》《ソナチネ》《戸外にて》そして各種の編曲民謡の本質を成すものもすべて含まれている。

それだけではない。後期の作品になると、ピアノの音自体が延長を持ち、空間的になり始めるのだ。ピアノの音そのもので、空間を表象したものがかつていただろうか。

〈間〉は時間、空間の形式である。しかし、音自体は形式に属さない。形式に属さない音が外的空間を作り出すとしたら、これは只事ではない。旋律は、線的なもの、つまり二次元的なものであり、「西洋音楽の伝統は、十九世紀までは音自体にほとんど線的、二次元的なものだけしか考えてこなかった」、いう結論はここから生ずる。

ただし例外はある。ベートーベンの交響曲《田園》に代表される、情景描写音楽だ。さらに標題音楽というものは確かにあるし、交響詩も数多くあり、バルトークが初期に最も影響されたリヒァルト・シュトラウスはこのジャンルでの最高峰であった。

が、まず、メンデルスゾーンの《フィンガルの洞窟》を例にとってみよう。この音楽は、波洗う海岸が入日になっている〈フィンガルの洞窟〉を想起させる。

実際に行った経験のある人ならすぐにもそこの情景を思い起こすだろう。ターナーの絵で知っているものは、その風景画を頭に描くだろう。が、それらは具体的な事物を思い起こさせるだけで、〈空間〉そのものは想起させない。ベルクソン流に云えば、最も低級な〈美)に属する。

しかし、バルトークの〈夜の音楽〉の〈間〉は事物を想起させずに、三次元空間そのものの存在を想起させる。〈夜〉という観念に属する事物や、性質を想起させたりはしない。具体的な事物や抽象的概念ではなく、〈間〉という〈実存〉を純粋経験として、体感させるのだ。バルトークの音楽の特性である〈本質〉を感じさせる力がここでも働く。

ここにおいて、我々は音楽を聴くことにより、世界を体験することになる。バルトークが《ミクロコスモス》と名付けたのは、まさに、当を得ていたのだが、バルトーク自身の思想は、おそらくそこまで進んでいなかっただろう。

芸術家が自己の作品の価値を決めるのではなく、作品の象徴する概念の精神的な高さが、その価値を決定する。しかし、その価植を認めるには、研ぎ澄まされた感性と、通念に左右されない頑固なまでの知性が必要不可欠なのである。

われわれは、バルークのおかげで、線的な二次元から三次元空間へ解放され、ゴッホのおかげで、面的な二次元から三次元空間ヘ、デリダの云うところの〈返還〉されることを知るのだが、このことは並の芸術家に出来ることではない。

微細な世界においては、線、面のように見えたものもすべて素粒子に還元される、不連続的(ものに関して)な世界であることが判明する。連続的であると考えられた電子の持つエネルギー変化も、実は断続的である。ビアノという楽器が断続的な固有周波数を持つ弦の集合であることを考えあわせると、バルトークが自分のピアノ音楽集成に《ミクロコスモス》と名づけたのは、自身が思っていたよりはるかに本質的な命名であった。

三次元世界をわれわれの意識に喚起してくれた《ミクロコスモス》のピアノ技法を駆使した最高傑作が、《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》である。ヴァイオリン音楽で特徴づけられた、迷走的な二次元の無限曲線旋律は、ピアノ音楽では、何か目標を追い駆ける〈チェイス〉に変容した。

そして、その〈チェイス〉を中断させる方法として、これまでおそるおそる試用されていた〈二連打音〉による停止法が、これらの曲の中で明確に開示される。なぜ、一撃ではいけないのか。下手をすると、音楽が停止したままになってしまうからで、〈一撃休止〉にバルトークは非常に神経を使った。

しかし〈二連打音〉は、計り知れない可能性を持っている。〈一撃打音〉の衝撃を緩和し、余韻を持たせることは、そこにおいて音楽が停止するのではなく、休止する、つまり、〈間〉があることを予感させるだろう。

〈二連打音〉には同音によるものと、音程の跳躍によるものがあるが、後者は〈休止〉を感知させる場合もあるし、連続させれば〈チェイス〉への導入部として非常に効果的なものにもなる。一方、同音による〈二連打音〉は、勿論、休止させる機能を持つことを始め、連続使用によるオスティナート演奏や、〈チェイス〉ヘの導入部としての役割を果たし切分音を混ぜてリズム・パターンを示すことも、キーノウトとしての使用も可能である。

〈二連打音〉的演奏法は、ピアノ音楽だけの特徴ではなく、それが最も効果を発揮するのがピアノという打鍵楽器だというだけであって、実際、非打鍵楽器用の作品、《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》第一楽章の冒頭は、この〈二連打音〉によって始められる。

ここでバルトークの音楽に整数論的考察を復習しておこう。このことによりさらにバルトークの音楽に肉薄できる意味において、決して無意味な考察ではないと思う。さらに、こうした試みをするのはバルトークに整数に関するある種の偏好が見られるからである。

仮に一音の長さを三分割して三単位とし(楽典上では三連符の一音)、一単位の音を〈単位音〉と呼ぶことにすると、二音では六単位音となる。三単位とした理由は、バルトークが偶数よりも奇数、特に、三、五、七という数字を好んだことによる。理由はわからないがとにかく、これがバルトークの偏好なのである。

たとえば《中国の不思議な役人》では執拗なまでに三にこだわり、多くの楽曲において五楽章制を採り、オペラ《青髭公の城》では七つの扉が設定されるというこだわりがある。

こうして六単位音を二単位音のみによって分割すると、二・二・二の長さの均等な三音が作られる。三単位音で分ければ元の二音に戻り、二音から三音が生ずることになる。二と三の組合せは、単位音を除いて、すべての整数音を作ることを可能にする。

ここで初めてメロディが誕生するのだが、さらに○(休止)、単位音を加えることにより、拍子とリズムのすべても整数論的に確立される。この章における〈二連打音〉も整数論的謂いである。

いずれにしても〈二連打音〉の最大特徴は、時間持続的な音楽に、連続意識を切断させる〈意外性〉を持ち込むことだ。この性質は伝統的な音楽美の観念を破壊する。その訳は、伝統的な美の観念は、〈先取性〉にあることが大前提になっているからだ。

ここでわれわれは新しい美学を創り上げなければ、少なくともバルトークの音楽を真に体験することが出来ない状況に追いやられる。ドビュッシーの和声進行の〈非先見性〉において、既に伝統的なものより一層包括釣な発展的美学を定義しておくべきだった。

がしかし、和声進行のように自然を装って行われる根源的変容に気づくことは、専門家以外には難しく、バルトークのような〈打音〉の衝撃によって我々の半分眠った神経は叩き起こされるのである。

《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》という、一風変わったソナタは、ピアノ奏法の革新を含むと同時に、〈伝統〉と伝統に安住したがるわれわれの精神を、その〈二連打音〉によって、文字通り、叩き直すのである。

もちろんそこには、深く伝統に根差した土台が不動のものとして礎を築いてはいるが、真に革新を目指した躍勤感あふれる創造精神とも言うべきものも作品全体にみなぎっている。そして、〈チェイス〉している目標の獲物を獲得すべく、追跡の足を決して緩めはしない。

〈チェイス〉、〈二連打音〉、〈間〉、〈夜の音楽〉における蠢動、そういったバルトークのピアノ語法が、打楽器とのコラボレイションにより、音楽の核心を突き破って、バルトーク自身の精神に食い込んでいく。そして、一枚、一枚、その表面を覆った皮を剥がしていくのだ。

今や、二次元の音楽は、三次元に拡張され、〈持続〉は時間的な〈間〉によって断ち切られ、〈先取性〉という伝統的な音楽美学も〈非先見性〉によって破壊された。次にバルトークが、破壊したものから創造するのは、一体何であろうか……

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参考

Yahoo!百科事典(バルトーク総論)

Yahoo!知恵袋-ミクロコスモスについて

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1. アレグロ・バルバロSz.49
2. 民謡による3つのロンドSz.84
3. 3つのハンガリー民謡Sz.66
4. 組曲op.14 Sz.62
5. ピアノ・ソナタSz.80
6. ルーマニア民俗舞曲Sz.56
7. 「15のハンガリー農民の歌」Sz.71~古い踊りの歌



































Suite Op.14; Im Freien Sz.81(戸外にて)...etc


ディスク:1
1. ピアノ協奏曲第1番Sz.83
2. 同第2番Sz.95
ディスク:2
1. 同第3番Sz.119
2. 2台のピアノと打楽器のためのソナタSz.110




















アンリ・マチス
ダンス(春のロンド)


ゴッホ
星月夜


ゴッホ
糸杉


ゴッホ
烏のいる麦畑


ゴッホ
嵐の前の麦畑?






















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ジゼール・ブルレ
音楽創造の美学


ディスク:1
1. ミクロコスモス
ディスク:2
1. ミクロコスモス


Bartok Piano Works
Andor Foldes


1.2.ミクロコスモスから
3.組曲Op.14
4.ルーマニア民俗舞曲
5.ソナタ
6.戸外にて
7.ソナチネ
8.アレグロ・バルバロ


フィンガルの洞窟


1. ヴァイオリン・ソナタ第1番Sz.75
2. 無伴奏ヴァイオリン・ソナタSz.117


1. 中国の不思議な役人op.19 Sz.73(1幕のパントマイム)
2. 弦楽器,打楽器とチェレスタのための音楽Sz.106


青ひげ公の城*歌劇